武将列伝帖
こでら さどのかみ もとたけ
小寺佐渡守元武
【氏】不明【姓】不明【名】小寺【通称】十郎左衛門【諱】元武
別 名
小寺十郎左衛門(こでら じゅろうざえもん)
出 身
不明
官 途
佐渡守、左衛門尉
所 属
毛利氏
生 年
不明
没 年
不明
- 列 伝 -
毛利家の家臣。
備後国の国人で備後国岩熊城を居城としていたが後に伯耆国河岡城へ入城とある。
外交能力に長け、卓越した交渉術を備えた人物と伝わる。
毛利氏の防長侵攻においては小倉元実と共に豊後の大友宗麟の元へと赴く使者を務め、防長への干渉を取り除いたことが記述に見え、能島村上水軍の一族である笠岡村上家を説得し毛利家に臣従させている。
1564年(永禄7年)、河岡城の城番に任命されている。
同じ頃、河岡城の城主であった山田満重と東伯耆、西因幡周辺地域の経略を行うと同時に南条宗勝と西因幡へ侵攻、武田高信らと共に尼子氏・山名氏の連合軍を破ったとしている。
尼子氏の滅亡後は尼子方の降将で伯耆国末吉城の城主、神西元通の目付役として中原善左衛門と共に末吉城に在城とある。
神西元通が再び尼子方と通じる直前、本国での軍議に赴くため末吉城から退出し芸州(安芸)へと向かっている。
末吉城に残った中原善左衛門は碁会の席で暗殺され末吉城は尼子方へと属することとなった。
一説には足を患っていたとされ、療養のため末吉城を離れたとも云われている。