所 属
毛利
よみがな
人物名
こでら さどのかみ もとたけ
小寺佐渡守元武
通 称
こでら じゅろうざえもんのじょう
小寺十郎左衛門尉
官 途
佐渡守、左衛門尉
出身地
不詳
生 年
不詳
没 年
1604年9月7日(慶長9年8月14日)
氏
不詳
姓
不詳
諱
元武
列 伝
毛利家の家臣。
備後国の国人で備後国岩熊城を居城としていたが後に伯耆国河岡城へ入城とされる。
外交能力に長け、卓越した交渉術を備えた人物と伝えている。
1555年(天文24年)頃
毛利氏の防長侵攻においては小倉元実と共に豊後の大友宗麟の元へと赴く使者を務め、防長への干渉を取り除いたことが記述に見え、能島村上水軍の一族である笠岡村上家を説得し毛利家に臣従させている。
1556年5月22日(弘治2年4月14日)
大友宗麟より佐渡守に任じられる。
三村家親書状(写)
1563年5月31日(永禄6年5月10日)
この頃より河岡城周辺の対尼子戦に参戦していたと推定される。
小寺家文書(萩藩閥閲録)
去十二日、就三村帰陣。河岡之城可明退之趣候之処。末近市郎右衛門尉、境孫右衛門尉、令同道、其方懸入踏静候付て彼城堅固候き其方覚悟無比類候。我等祝着之段更不及言語候。忠義之至候、猶比者可申候。謹言。永禄七年六月十五日 小寺佐渡守殿
1564年6月18日(永禄7年5月10日)
毛利元就より河岡城への増援として派遣される。
1564年6月20日(永禄7年5月12日)
三村家親が備中国へと帰陣する。
三村家親の帰陣に伴い河岡城を開城し立ち退く方針であったが、小寺就武、末近宗久、境経俊らと河岡周辺の守りを固めている。
1564年7月2日(永禄7年5月24日)
末近宗久、境経俊と共に毛利元就、吉川元春、小早川隆景の連署にて河岡周辺での功績を賞される。
1564年7月23日(永禄7年6月15日)
三村家親の帰陣後も引き続き河岡周辺を堅守した働きを毛利元就から称賛されている。
1564年(永禄7年7月)
山田満重と東伯耆、西因幡周辺地域の経略を行っている。
尼子義久と山名豊数が毛利方の進軍を妨害する為、因伯国境付近に布陣すると南条宗勝の援軍として山田重直と共に派遣される。
1564年8月28日(永禄7年7月22日)
武田高信へ助力し、因幡国鹿野城の野戦で尼子氏、山名氏の連合軍を破り鹿野城を占拠する。
1564年9月28日(永禄7年8月23日)
毛利元就の指示により毛利方の田公氏を救援するため、小寺就武、山田重直、小森久綱らと因幡国宮吉城に拠り山名祐豊の軍勢に備える。
1569年(永禄12年)
尼子氏の滅亡後は尼子方の降将で伯耆国末吉城の城主、神西元通の目付役として中原善左衛門と共に末吉城に在城とある。
神西元通が再び尼子方と通じる直前、本国での軍議に赴くため末吉城から退出し芸州(安芸)へと向かっている。
末吉城に残った中原善左衛門は碁会の席で暗殺され末吉城は尼子方へと属することとなった。
一説には足を患っていたとされ、療養のため末吉城を離れたとも伝えている。
1570年(元亀元年)
再び伯耆国への駐在を伝える。
吉川元春は伯耆国での忠勤を労い、その働きは毛利輝元へと報告するので後に毛利輝元からも謝意が伝えられるだろうとしている。(吉川元春書状)
1576年(天正4年7月)
南条家の家臣、福山茲正の織田方との内通が露顕したことにより、吉川元春の命を受けた山田重直は羽衣石城下の山田館へと福山茲正を誘い込み一族共々殺害する。(吉川元春起請文および山田家文書)
陰徳太平記では1579年(天正7年4月)の出来事となっているが、年月が逆の誤記載と考えられる。(吉川元春書状に天正4年7月11日付とあるため)
事件の事後処理は吉川元春が対応する予定であったが、吉川元春の病気療養のため自身が代行することとなった。
1579年10月7日(天正7年9月17日)
織田方へ恭順の意を示し毛利方に叛旗を翻した南条元続の説得を毛利輝元より依頼され、南条方を毛利方に引き留める策を講じるが奏功せず、南条元続の叛意が確定される。
1581年12月25日(天正9年11月30日)
毛利輝元から小寺元賢を正当な後継者とするよう吉川元春へと書状が送られている。
1601年(慶長6年)
前年の関ヶ原の戦い後の戦後処理で毛利家が長門国、周防国への減封となると移封に従う。
1604年9月7日(慶長9年8月14日)
死去。
夫妻の墓は瑞雲萬歳山大寧護国禅寺(大寧寺)に所在。