よみがな
人物名
じんざい さぶろうざえもん もとみち
神西三郎左衛門元通
出身
不詳
生年
不詳
没年
1578年(天正6年)
氏
小野
姓
朝臣
名
神西
通称
三郎左衛門
諱
元通
官途
越前守、左衛門尉
別名
神西国通(じんざい くにみち)
所属
尼子
▶
毛利
▶
尼子
▶
毛利
▶
尼子
列 伝
尼子家の家臣。
尼子氏に足軽大将として仕えて美作国に4,660石を知行される。
後に尼子十旗の一つである出雲国神西城を任せられている。
1541年(天文9年)、毛利領の安芸国吉田郡山城を攻めるが敗北している。
1558年(永禄元年)頃には石見国~出雲国西部の押さえとして亀井能登守から信頼を得たとされる。
1563年(永禄6年)から毛利氏の出雲国侵攻が始まると毛利方の調略によって石見国山吹城の城主本城常光が尼子方から離反。
本城常光の離反を発端に出雲国の国人衆が尼子氏から続けて離反する事態となり、出雲国神西城を維持できないと判断すると毛利方へ降伏している。
同年、本城常光が毛利方により謀殺されると再び尼子方へ帰順。この時は出雲国月山富田城へ入城している。
1565年(永禄8年)、毛利元就による出雲国月山富田城への攻撃には大手門で奮戦し抵抗を見せる。
1566年(永禄9年)、毛利方の武将、吉川元春の攻撃によって出雲国月山富田城は落城。
尼子氏が滅亡すると諸将と共に再び毛利氏へ降伏している。
降伏後は毛利氏に忠勤を尽くしたとされることから毛利元就より伯耆国末吉城の城主を任されたが、目付役として中原善左衛門と小寺佐渡守が同城へ在城とある。
1569年(永禄12年)、山中幸盛が尼子勝久を担ぎ尼子再興の軍を起こすとかつての尼子家旧臣、目賀田幸宣らも再興の動きに乗じて反乱を起こした。(これには諸説あり、目賀田幸宣らの反乱に乗じて山中幸盛が軍を起こしたとする説もある。また、この年に中原善左衛門を暗殺し尼子方へ寝返ったともされ、この説では山中幸盛と共に翌年の布部山の戦いに参加している)
1570年(元亀元年)、布部山の戦いでは九州方面から転進してきた毛利輝元、吉川元春、小早川隆景らの率いる毛利軍主力部隊と山中幸盛の率いる尼子の軍勢が戦い、この戦に敗れた尼子方は大山経悟院を頼ると山中幸盛から誘引の書状を送られている。
この時に山中幸盛から遣わされた僧とのやり取りでは「古柄小野本柏」と扇に認め返信しており、山中幸盛と立原久綱は扇の文句が「石の上 古柄小野 本柏 もとの心は 忘られなくに」の古歌の一節で、尼子氏からの旧恩、諸将との友誼を忘れていない事を記した句であると判断し、再び僧が派遣されると尼子氏へ帰順したとされる。
1571年(元亀2年)6月、末吉城にて碁の強豪、林阿弥を招き碁会を催すが、この対局中に目付役の中原善左衛門を暗殺し尼子方の山中幸盛へと寝返った。(この説では布部山の戦いには参加しておらず、中原善左衛門を暗殺する時期も諸説見える)
同年8月、末吉城での戦いに敗れると山中幸盛と共に京へと落ち延びている。(山中幸盛は捕縛され伯耆国尾高城へ連行されていたため後に合流したと考えられる)
1577年(天正5年)、尼子残党は毛利攻略のため織田家の家臣、羽柴秀吉の配下に組み込まれ、播磨国上月城へ入城すると当城を居城とした。
居城を得たのも束の間、この動きを察した毛利方の6万の兵によって播磨国上月城は包囲されている。
羽柴秀吉は救援を送らず別所長治の拠る播磨国三木城攻めへと転進したため、孤立無援となった播磨国上月城の尼子勝久は自身と一族の自害を以って城兵の助命を条件にすることで上月城を開城している。
1578年(天正6年)、主君の尼子勝久ら一族と共に自刃したとされ、尼子勝久と共に供養塔が現在も上月城跡に現存している。
一説には主君の尼子勝久と一族の助命を嘆願し、毛利方からの返答が来る前に自刃したとも云われる。
文書によって戦への参加、尼子方への帰順時期、最期の描写が違っており、伝が多い故に謎の多い人物でもある。