所 属
毛利
よみがな
人物名
なかはら ぜんざえもん なりひさ
中原善左衛門就久
官 途
左衛門尉
出身地
不詳
生 年
不詳
没 年
1571年(元亀2年6月)
氏
不詳
姓
不詳
諱
就久
列 伝
毛利家の家臣。
弓の名手で囲碁を好んだ武将と伝える。
1540年(天文9年)
安芸国吉田郡山城の戦いに毛利方として参戦。
1541年2月8日(天文10年1月13日)
偵察のため物見に出ていた所で尼子方の殿軍部隊と遭遇し、弓にて馬上の尼子久幸を射殺し討ち取っている。
1569年(永禄12年)
尼子氏の滅亡後は降将であった神西元通の目付役として小寺元武と共に伯耆国末吉城に在城とある。
同年、尼子再興の軍が熾ると大山寺経悟院が領有していた末吉城、伯耆国稲吉城、伯耆国淀江城は毛利方に反旗を翻し尼子方へと与している。
末吉城の蜂起の際、神西元通によって殺害されたと伝えるが、末吉城の蜂起及び神西元通の裏切りは後述の元亀年間とされている。
1571年(元亀2年6月)
神西元通によって催された碁会において林阿弥との対局中に暗殺される。
暗殺の後、神西元通は再び尼子方へと寝返ったため大山経悟院へ向け進軍していた毛利方の吉川元春は後方の憂いを絶つため末吉城へ転進することとなった。
末吉城の現地案内板や末吉集落に残る伝承では既に第一次尼子再興戦が始まっており、末吉城での戦いの最中の出来事として伝えられる。
伝承では尼子方に寝返った神西元通の元へ和睦交渉の使者として在地土豪の美甘与一右衛門と共に末吉城へと遣わされており、和睦の成立を祝い宴席が設けられたが、宴席は油断を誘った催しであり和睦も偽りであったことから神西元通の手の者によって美甘与一右衛門共々暗殺されている。