所 属
毛利
よみがな
人物名
みかも よいちえもん
美甘与一右衛門
別 名
みかも よいちざえもん
美甘与一左衛門
官 途
右衛門尉、左衛門尉
出身地
伯耆国汗入郡末吉村(所子村とも)
生 年
不詳
没 年
1571年(元亀2年6月)
氏
不詳
姓
不詳
諱
不詳
列 伝
伯耆国汗入郡末吉村に所在した土豪、美甘氏の一族。
出身は同郡所子村とする伝承があり、一族の中でも血気盛んな勇将で評判の高い人物と伝える。
1571年(元亀2年6月)
再び尼子方へと寝返った神西元通への和議の使者として中原善左衛門と共に遣わされる。
伯耆国末吉城へ到着すると「和議の交渉に刀は不要である」との理由から館の入口で刀を預けることになったが交渉は終始順調に進み、和議の成立祝いとして歓待の宴が行われている。
しかし、祝宴は神西元通の謀略とされ、宴会も終わり帰路に着こうとしたところを不意に尼子方の刺客によって背後から斬りつけられている。
刀は館の入口で預けたままの丸腰であり、とっさに辺りに落ちていた石を掴み応戦を試みるが初撃で深手を負っていたこともあり、抵抗も敵わず中原善左衛門と共に末吉城の城内にて暗殺される。
数日後、末吉城は陥落し城将の山中幸盛が捕縛されると第一次尼子再興戦は終結する。
吉川元春は非業の死を悼み、忠義を称える碑が末吉城の跡地に建立され、手厚く葬られたとされる。
美甘家に伝わる伝承ではこの時の抵抗に使ったとされる石を「力石」と呼び、碑の周囲に保存供養がなされ無念を偲ぶと伝えられている。
天正年間
汗入史綱では末吉城に立て籠もる山中幸盛が毛利方の福頼左衛門尉を幾度も退けたと記述される。
当城に籠もった山中幸盛はよく戦い、攻めあぐねた福頼氏は美甘氏に使者を出したと伝える。
国信神社の社伝にも同様の内容が伝えられ、尼子再興戦に於いて毛利方の福頼左衛門尉が尼子残党と戦っているが、社伝も天正年間の出来事としているため信憑性に欠ける伝承となっている。