伯耆国 会見郡
おくのたにじょう
奥谷城
所在地
鳥取県米子市奥谷
城 名
奥谷城(おくのたにじょう)
別 名
奥谷砦(おくのたにのとりで)…小規模な城郭とする呼称。
船上山砦(せんじょうさんとりで)…所在する船上山に因む呼称。
外構山砦(とがまえやまとりで)…船上山の別名が外構山とされることに因む呼称。
築城主
不詳
築城年
不詳
廃城年
不詳
形 態
山城
遺 構
郭跡(腰郭・帯郭)、堀切、切岸、礎石跡
現 状
熊野神社、船上神社、山林
備 考
史跡指定なし
縄張図
米子市埋蔵文化財地図に所在地の図示あり。
城 主
不詳
城主不詳。
参考資料(史料及び文献、郷土史など)
旧成実村史(昭和39年3月 なるみ第22号)
成実の歴史(昭和61年3月25日)
米子市埋蔵文化財地図(平成6年3月 米子市教育委員会)
概 略
奥谷集落の東に聳える船上山(外構山)の山頂から南方の尾根筋にかけて郭跡と堀切が続く。
集落から少し東に上ると熊野神社が鎮座し、北側の山中には円墳(宗像29号墳~33号墳)の古墳群跡が残る。
古墳群には淵を切岸状にし高低差が残されている古墳跡と、形のみが視認できる程度で高低差も僅かな古墳跡が混在するがいずれも中世~戦国期には地形を利用し砦の一部として運用されたことが推測される。
熊野神社から参道を南に進むと切通の通路となり、残存部の地形から堀切を開削して造られたと推察される。
参道を更に南東へ進むと山頂には船上神社が鎮座している。
地元の方々によって参道が整備されているので社殿までは容易に到達することが可能。
船上神社境内が標高のピークとなること、南北を堀切で絶っていること、北側に10段程度の連郭を設けていることなどから境内が主郭と考えられ、周辺に井戸らしき形跡がないことから村の城や見張櫓のみの簡素な施設ではなく短期間の戦闘が想定された城砦が想定される。
主郭には腰郭として帯郭も附けられ、堀切も高低差を以った入念な普請が見受けられる。
伝えには見張砦とされるが見張のための施設であれば最低限の平削地に掘立小屋程度の施設があれば事足りるため、当城砦は最低限の戦闘能力を有した施設と推測される。
城砦に関する伝承は乏しく、旧成実村史では伯耆国石井城(石井要害)の出城とされ、字ドウドウの南側の山、小学校(現在の成実公民館)南側の山を合わせた3城砦が見張砦としての役割を持ったと記している。
所在する船上山は別名に「外構山」とも呼称すること、石井城や伯耆国七尾城が出雲国や法勝寺方面からの侵攻に備えた城砦であり、伯耆国尾高城へと続く街道往来の監視を担ったと推測されることから石井城、七尾城が大事の際、当地最後の防衛拠点と考えられる。
米子市埋蔵文化財地図の遺構分布図には船上山の南方に単郭が一つ、堀切が一条だけ図示されるが実際に船上神社から南には3段の郭跡とそれぞれの間には堀切が見える。
全体的に東西の谷筋を上手く利用し残存する遺構の状態からは東側~南側に対して防御力を高めている傾向が伺え、単独でも比較的高い防御機能を持った城砦であったと感じられる。
前述では出雲方面からの侵攻に備えた最後の防衛施設と仮定したが、遺構の防御方向を見ると東側(汗入方面)に備えた城砦とも一考でき、東側に備えたとすれば織田方に与した南条氏に備え毛利氏(吉川氏)が最終的に手を加え、伯耆国米子城から出雲国月山富田城への抜け道にも沿うことから吉川広家の岩国移封頃まで必要最低限の機能を維持して存続した可能性も考えられる。
写 真
2019年5月2日