伯耆古城図録

いしいじょう いしいやしき

石井城 石井屋敷

鳥取県米子市石井

別 名

西谷山砦(にしたにやまとりで)

遺 構

郭跡(腰郭、帯郭)、堀跡(竪堀、横堀)、堀切、土塁、切岸、虎口、礎石

遺構(備考)

遺構は全壊扱いとしているが、主郭の南側~北東側にかけて腰郭と横堀が配置され、腰郭の東側には竪堀状の溝や土塁が遺る。(造成などによる改変も推測される)

横堀は農道への転用のため切通として加工された痕跡が見え、竪堀は古墳の石室跡を転用し、一部は横堀の切通と同様に後世に加工されたと思われる切断面も見える。

現 状

米子市営 南公園墓地、山林、畑地

城 主

(古引方)内蔵允

築城年

不明

廃城年

不明

築城主

不明

形 態

丘城、居館

備 考

史跡指定なし

参考文献

伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻四 大正5年10月 佐伯元吉)

牧野家古文書

石井村名寄帳(元禄2年)

旧成実村史(昭和39年3月 なるみ第22号)

成実の歴史(昭和61年3月25日)

縄張図

石井屋敷略測図(鳥取県教育委員会提供)

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

 

概 略

小字「西谷山」に所在したと云われ、現在は米子市営南公園墓地となっている。

公園(墓地)として造成が成されたため遺構は徹底的な破壊・改変を受けたとしているが主郭を囲む腰郭の一部に残存部が見受けられる。

旧成実村史では伯耆国石井城石井要害)の出城の一つとされ、小字「ドウドウ」の南側の山(西谷山)に所在と記される。

小字「陣場ドウドウ」の南側の山(河屋山)の砦(伯耆国河屋山砦)と相対する位置に所在とし、出雲街道からの侵攻に備えた城砦と推測される。

 

伯耆志 石井村の条 屋敷跡の項

村中畠の字なり。古引氏の臣、内蔵允と云いし人の墟なりと云えり。

 

伯耆志では古引氏の家臣が居住した屋敷跡とする記述が見える。

内蔵允と官途のみ記述される人物が居館の主とされるが、一説に進氏の家臣とも伝わる。

この頃の古引氏の家臣であれば赤松政則の妻(紀成盛の娘)が離縁した際、故郷の伯州長者原(坂中)へ戻る道中の共として付き従った古曳永綱の家臣か一族と推測される。

 

地元に伝わる口伝では周囲の各山々には狼煙台など伝令を行う施設が点在し、周囲の城砦と連携した運用が行われたと伝えられている。

そのためか周辺の山々の頂部や山腹には郭跡と思われる平坦地や礎石跡も見受けられる。

 

年 表

不明

古引氏の臣、内蔵允の居館と伝わる。(伯耆志)

地 図

 

写 真

訪城日 2019/12/21

北東側からの遠望

主郭南側の切岸(改変)

主郭南側の切岸(改変)

郭跡(南側腰郭)

郭跡(南側腰郭)

南側腰郭から主郭

郭跡(南側腰郭)

横堀(主郭南側)

横堀(主郭南側)

横堀(主郭東側)

横堀(主郭東側)

横堀(主郭東側)

横堀(主郭東側)

横堀(主郭東側)から主郭

竪堀(東側)

竪堀(東側)

竪堀(東側)

土塁(東側)

土塁(東側)

堀切(東側)

東側の作業道

東側の作業道の高低差

東側の作業道の高低差

東側の作業道の高低差

南側の空堀から東郭への道

空堀(南側)※農道のための切通

空堀(南側)※農道のための切通

東郭

東郭

東郭から妙喜寺

東郭からドウド池へ

ドウド池

写 真

訪城日 2018/04/22

主郭の遠望

西側尾根の郭跡への入口

西側尾根の郭跡

西側尾根の郭跡

西側尾根の郭跡

西側尾根の郭跡の虎口

写 真

訪城日 2013/05/18

南公園墓地の最南端

屋敷跡には東屋

上 へ

戻 る