所 属

伯耆山名

よみがな

人物名

ゆきまつ みなもとのたひょうえ

行松源太兵衛

 

別 名

いくまつ げんたべえ

生松源太兵衛

因伯文庫 伯耆民談記(萩原直正校註)

官 途

不詳(兵衛尉)

出身地

不詳

生 年

不詳

没 年

不詳

朝臣

不詳

列 伝

伯耆山名氏に仕えた有力国人(伯州衆)行松氏の一族。

伯耆国七尾城の城主と伝える。

 

伯耆志 橋本村の条 城趾の項

上に云う寶石山なり。行古行松源太兵衛と云う武士の居城にて七尾城と云う。北方に井あり。石垣の形あり。一山五輪塔多し。又、彼の行松氏の霊なりとて八幡の社あり。按するに尾高城に在りし行松氏の族なるべし。

 

伯耆民談記 橋本村の条

榎原郷橋本村に有り。古城主生松源太兵衛の家城なり。

 

1521年(永正18年/大永元年)

七尾城の城主として阿陀萱神社へ寄進を行ったとする。(阿陀萱神社縁起)

 

1523年(大永3年)

尼子経久から阿陀萱神社へ寄進が行われたとする。(阿陀萱神社縁起)

大永年間の初め頃には支配勢力が伯耆山名氏から尼子経久へと移り変わっていたことが伺える。

 

1524年(大永4年)

尼子経久による西伯耆侵攻(大永の五月崩れ)を受け、行松氏の家城であった伯耆国尾高城、伯耆国大江城が陥落する。

七尾城も落城或いは放棄となり、行松氏が伯耆国内に有した所領の悉くが尼子方によって攻略される。

行松正盛は国外(但馬国とする)へと逃亡しており、自身も七尾城を放棄し流浪の身となっている。

阿陀萱神社縁起から伯耆民談記に描かれる大永の五月崩れは西伯耆一円を数日のうちに制圧した電撃戦とするものではなく、最後まで尼子方に従わず抵抗した勢力を排除し西伯耆の平定を目的とした性質の戦いであったと推測される。

 

七尾城から退去した後は行松正盛や一族と共に但馬国の但馬山名氏を頼ったものと推定され、若狭の小浜で戦死したことが郷土史に見える。

 

人名については「源太兵衛(げんたべえ)」が一般的とするが、行松氏の出自であることから「源(朝臣)(官途)太(輔)兵衛(尉)(みなもとのあそみ○○たいふひょうえのじょう)」が略された呼称とも推測される。

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