武将列伝帖
きなし なかつかさのしょう / きなし なかつかさのたいふ
木梨中務少輔 / 木梨中務太輔
【氏】不明【姓】不明【名】木梨【通称】中務少輔【諱】不明
別 名
木梨左馬助(きなし さまのすけ)
出 身
不明
官 途
中務少輔、中務太輔、左馬助
所 属
毛利氏⇒杉原氏⇒吉川氏
生 年
不明
没 年
不明
- 列 伝 -
杉原盛重の部将。杉原氏の一族とも云われる。
1582年(天正10年)頃、杉原盛重より伯耆国由良城の守将を任じられている。(陰徳太平記六一 因州長郷田合戦ノ条)
この条では城番を預かった武将として「木梨中務太輔」としている。
1582年1月19日(天正9年12月25日)、杉原盛重が伯耆国八橋城にて没すると家督争いへと発展し、杉原元盛が謀殺されると杉原景盛より伯耆国尾高城の守将を任されている。
1582年(天正10年)8月3日、吉川元長より派兵された香川春継、粟屋就光ら討伐隊は杉原景盛の籠る伯耆国佐陀城を包囲していたが、戦略的に尾高城の攻略が先と考えた別動隊によって包囲されている。
尾高城への包囲が完成すると討伐隊からの説得を受け、城内の将兵らも説得に応じ矛を交えることなく毛利方へ帰順した。