所 属

毛利

吉川

よみがな

人物名

もりわき えちごのかみ はるちか

森脇越後守春親

 

別 名

もりわき おおくらのじょう

森脇大蔵丞

 

 

別 名

もりた はるちか

森太春親

 

 

別 名

もりさ はるちか

森左春親

 

官 途

大蔵丞、越後守(伯耆民談記)

出身地

不詳

生 年

不詳

没 年

不詳

不詳

不詳

春親

列 伝

吉川家の家臣で吉川元春の部将。吉川元春から偏諱を受けるほど信頼の厚い人物。

伯耆民談記では伯耆国條山城、伯耆国天守山城の城主としている。

 

毛利家の古文書では名と官途を略す記述がよく見られ文書によって様々に略されている。

「森太、森太春親、森左春親(石吉)」「森越(横道恕介文書、洞泉寺所蔵御書)」「森越後(二宮神左衛門文書)」など

 

1580年(天正8年9月22日付)

南条方に与する小鴨氏の居城、伯耆国岩倉城の向城として條山城が築城されると当初は岡本大蔵田根兵部が城番として置かれたが暫くの後、條山城の城主となってる。

この頃、八橋郡(現在の鳥取県東伯郡北栄町)に在った津波並之橋の修理を急ぐよう要請しており、対南条戦における兵站確保を重要視していたことが伺える。(森脇春親等連署書状(方見神社文書 九月廿二日付))

 

伯耆民談記 八橋郡古城之部 妙見山の城

上ノ郷大杉村に在り。当城は南条元続より人数を入置きたり。天正十年、篠山森脇越後守より秋里新左衛門三沢備後を遣し攻めたるに、南条元続も自身当城に来り。突て出で戦いしが秋里並に岩垣何助、南条が士の近藤何某東平八という者を討て遂にを乗り取りける。其後、南条勢赤崎の東に出で働きけるに吉川元春、箆津の城にありけるが、森脇越後守秋里新左衛門等を差向けて南条勢追崩づす。上ノ郷の内、赤松村谷奥に古き五輪あり。是れ赤松円心の古墳なり。是によって村名赤松と称するなりという。されば如何なる故に此所に塚を造りしにや伝記等も詳かならず。

 

1582年(天正10年)

杉原景盛の処断後、伯耆国妙見山城の帰属に関して南条方が返還の約定を履行しなかったため秋里新左衛門三沢備後守を派兵している。

秋里新左衛門岩垣何助の働きにより妙見山城を接収する。

 

伯耆民談記 八橋郡古城之部 秋里新左衛門戦務書述の事

近年私御奉公仕様之事

一、景盛御打果しの時、八橋郡上ノ郷妙見山を受取可攻旨森脇越後守殿より三沢備後守殿、両人に被仰付馳向候てにも入不申山下至南条殿自身に被出候處、三沢殿は岸中に逗留より南条殿方に末の仕手、近藤と申仁罷出候を道にて岩垣何助両人申合取すすめ速時に彼城へ入受取申事森脇具に可被存知事。

 

因幡(稲場)民談記 巻第十 筆記之部 下 秋里新左衛門戦務書述

近年私御奉公仕様之事

一、景盛御打果の時八橋郡上の郷妙見山を請取申すべき之由従森脇越後殿、三沢備後殿、両人参候へ之旨被仰付参候。左候えばにも入不申至山下南条殿自身被出候處、三沢殿者岸中逗留より南条殿方に示して近藤と申仁罷出候を道にて岩垣何助両人申合すくめ則彼城に入請取申事森脇被存知候事。

 

1584年(天正12年)

杉原景盛の死後、毛利方へ返還されるはずの当城は未だ南条方の近藤何某が占有していたため、部将の秋里新左衛門三沢備後守に命じて城の受け取りに派遣したが南条方から城の返還は行われず、城への入城も拒まれたため秋里新左衛門は山下(城下)三沢備後守は岸中(主郭直下の切岸付近か)に布陣し妙見山城を包囲する。

南条元続自ら援軍を率いて来援するが、城将の近藤何某を破り妙見山城を接収する。

秋里新左衛門からは妙見山城を迅速に接収できたのは秋里新左衛門の迅速且つ的確な判断と岩垣何助の働きあっての事とし、両名の手柄である事を念を推して報告されている。(秋里新左衛門戦務書述)

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