武将列伝帖

もりわき えちごのかみ はるちか

森脇越後守春親

【氏】不明【姓】不明【名】森脇【通称】越後守【諱】春親

別 名

森脇大蔵丞(もりわき おおくらのじょう)

森太春親(もりた はるちか)

森左春親(もりさ はるちか)

出 身

不明

官 途

大蔵丞、越後守

所 属

吉川氏

生 年

不明

没 年

不明

 

- 列 伝 -

吉川家の家臣で吉川元春の部将。吉川元春からは偏諱を受けるほど信頼の厚かった人物。

伯耆国條山城の城主とされ、伯耆民談記では伯耆国天守山城の城主ともしている。

 

毛利家の古文書では名と官途を略す記述がよく見られるが、本人も文書によって様々に略されている。

「森太、森太春親、森左春親(石吉)」「森越(横道恕介文書、洞泉寺所蔵御書)」「森越後(二宮神左衛門文書)」など

 

1580年(天正8年)、南条方に与する小鴨氏の居城、伯耆国岩倉城の向城として條山城が築城されると当初は岡本大蔵田根兵部が城番として置かれたが暫くの後、條山城の城主となってる。

この頃、八橋郡(現在の鳥取県東伯郡北栄町)に在った津波並之橋の修理を急ぐよう要請しており、対南条戦における兵站確保を重要視していたことが伺える。(森脇春親等連署書状:方見神社文書 九月廿二日)

 

1582年(天正10年)、東伯耆の領有を巡り吉川元春南条元続が争う中、吉川元春の命を受け妙見山合戦に参戦。

部将の秋里新左衛門三沢備後守を遣わせ伯耆国妙見山城を攻撃させている。

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