伯耆古城図録

てんしゅやまじょう / てんもりやまじょう / てんしやまじょう

天守山城

鳥取県西伯郡大山町下市

別 名

天子山城(てんしやまじょう)、下市城(しもいちじょう)

遺 構

郭跡、土塁、堀切、土橋、平入虎口、枡形虎口、空堀

中央部は埋め立てにより消滅

現 状

畑地、山林

城 主

(尼子方)森脇氏

(吉川方)森脇祐秀森脇春親

築城年

鎌倉時代(南側)・安土時代(北側)

廃城年

不明

築城主

不明

形 態

平山城

備 考

史跡指定なし

参考文献

陰徳太平記[香川正矩 編](明治44年5月 犬山仙之助)

因伯古城跡図志(文政元年 鳥取藩)

汗入郷土誌 第1集(昭和32年5月 汗入教育振興会社会科研究部)

新修中山町誌 上巻(平成21年3月 中山町誌編集委員会)

新修中山町誌 下巻(平成21年3月 中山町誌編集委員会)

大山町文化財ガイドマップ

縄張図

天守山城略測図(鳥取県教育委員会提供)

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

 

概 略

旧中山町内の下市の南方に位置する。城域が築城時期によって南北に分かれると推定されている。

鎌倉時代に築かれた旧城砦と安土時代に天守山へ築かれた新城砦、新旧の城砦を繋げるニノ郭をあわせた城域が当城としている。

 

天正の初め頃、毛利元就の次男、吉川元春が度々伯耆国へ入国した際は家臣の森脇祐秀が居城としたと伝える。

吉川元春が芸州へ戻ることとなると森脇祐秀も同行したため廃城と伝えている。

 

縄張図ではニノ郭に南北の郭跡を区切る空堀と西側から旧城砦へと続く枡形虎口が記載されているが、畑地の所有者によって埋められ改変を受けたことを確認しており、現状で遺構の確認をすることは難しい。(名残と言われるとそれらしくは見える程度に面影は残る)

ニノ郭の広さは「長九十間 横六十間」と記載される。

鎌倉時代築城の南側城郭や天守山へ続くニノ郭は畑地所有者の開墾によって大きな改変を受け、農道も馬車が通れるようにと大幅に整備されている。

 

天守山の主郭は元来、長方形の郭跡であったと因伯古城跡図誌に記されるが、北東を流れる下市川が氾濫するなどして侵食や崩落が起こり、北東側は抉られ現在の三角形の地形になったと推測される。

そのため主郭の西側、南側には土塁が残り、主郭への備え(防御の高さ)を感じさせるが北側、東側には防御施設が一切見られない不自然な形状となっている。

 

中山町史では僅かに濠を残すのみとしているが水堀とするかは不明。

 

年 表

鎌倉時代

六十間(約108メートル)四方の郭を持つ城砦が築かれたとされる。

安土時代

鎌倉時代に築城された城砦から北方の山、天守山に新城を築城。

長三十間(南北約54メートル)、横十五間(東西約27メートル)の主郭と図示にある。

天正年間

城主の森脇祐秀は吉川家の家臣であり、吉川元春に付き従い安芸へ戻ったと云われる。

森脇祐秀の退去に伴って廃城とされる。

地 図

 

写 真

訪城日 2018/04/28

北側からの遠望

南側からの遠望

南東側からの遠望

南側の堀状地形

二ノ丸

二ノ丸

二ノ丸

主郭

主郭

主郭

主郭西側の土塁

主郭南西の土塁

主郭西側土塁の虎口

主郭南側土塁(東側)と虎口

主郭南側土塁(西側)と虎口

主郭から土橋

二ノ丸から土橋

主郭側の堀切

主郭南側土塁

主郭南側土塁

主郭南側土塁

主郭南側土塁

南東堀切を埋める廃棄物

南東堀切を埋める廃棄物

南東堀切を埋める廃棄物

南東堀切を埋める廃棄物

南東堀切(残存部)

写 真

訪城日 2013/12/15

主郭への登城口

主郭への登城道(土橋)

南側の土塁(南平入虎口南側:西側)

南側の土塁(南平入虎口南側:西側)

南側の土塁(南平入虎口南側:東側)

南側の土橋

南側土橋の堀切(平入虎口南側:西側)

南側土橋の堀切(平入虎口南側:西側)

北側の土橋(主郭南側)

北側の土橋(主郭南側)

北側土橋の堀切(東側)

北側土橋の堀切(西側)

北側土橋の堀切(西側)

主郭南側の平入虎口

主郭南側の平入虎口

主郭南側の土塁

主郭南側の土塁

主郭南側の土塁

主郭南側の土塁

主郭

主郭

主郭

主郭西側の土塁と虎口

主郭西側の土塁と虎口

主郭西側の土塁と虎口

主郭北東側の崩落部

二ノ丸

二ノ丸

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