伯耆国 汗入郡
てんしゅやまじょう
天守山城

所在地
鳥取県西伯郡大山町下市
城 名
てんしゅやまじょう
天守山城
天守山への所在に因む
別 名
てんもりやまじょう
天守山城
所在する「天守山」に因む地元の呼称
しもいちじょう
下市城
下市村への所在に因む呼称
てんしやまじょう
天子山城
郷土史に見える記述
てんしゅやまじょう
天主山城
郷土史に見えるが基督教との関連は不明
築城主
不詳
築城年
不詳(安土時代と推定される)
廃城年
1582年(天正10年)
形 態
山城
遺 構
郭跡、土塁、堀切、土橋、平入虎口、枡形虎口、空堀※
※ 旧城との境界部は埋め立てにより消滅
現 状
畑地、山林
備 考
史跡指定なし
縄張図
天守山城略測図(鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編))※鳥取県教育委員会提供
伯耆民談記に城主とする
参考資料(史料及び文献、郷土史など)
陰徳太平記[香川正矩 編](明治44年5月 犬山仙之助)
因伯古城跡図志下 伯耆国(文政元年 鳥取藩)
伯耆民諺記(寛保2年 松岡布政)
伯耆民諺記(写)(昭和23年 原田謙)
伯耆民談記 巻上(大正3年1月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
伯耆民談記 巻下(大正3年3月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
伯耆民談記(昭和2年10月 佐伯元吉)
因伯文庫 伯耆民談記(昭和35年3月 萩原直正校註)
汗入郷土誌 第1集(昭和32年5月 汗入教育振興会社会科研究部)
新修中山町誌 上巻(平成21年3月 中山町誌編集委員会)
新修中山町誌 下巻(平成21年3月 中山町誌編集委員会)
大山町文化財ガイドマップ( )
年 表
鎌倉時代
六十間(約108メートル)四方の郭を持つ城砦を始まりとする。
安土時代
鎌倉時代に築城された城砦から北方の山、天守山に新城を築城する。
長三十間(南北約54メートル)、横十五間(東西約27メートル)の主郭と図示にある。
概 略
下市集落の南方に位置する。
元来は鎌倉時代頃に築かれた伯耆国下市城を本城とする城砦であったが、安土桃山時代頃には北側に新城が増築されたと推定している。
鎌倉時代に築かれた旧城砦(下市城)と安土桃山時代に天守山へと築かれた新城砦、新旧の城砦を繋げるニノ郭を併せた城域を当城としている。
元亀年間~天正年間初頃
尼子再興戦前後は吉川家の家臣、森脇祐秀の居城を伝える。
1582年(天正10年)
吉川元春の隠居に伴い森脇祐秀も芸州へ戻ることとなったため廃城と伝えている。
縄張図ではニノ郭に南北の郭跡を区切る空堀と西側から旧城砦へと続く枡形虎口が記載されているが、畑地の所有者によって埋められ改変を受けたことを確認しており、現状で遺構の確認をすることは難しい。(名残と言われるとそれらしくは見える程度に面影は残る)
ニノ郭の広さは「長九十間 横六十間」と記載される。
鎌倉時代築城の南側城郭や天守山へ続くニノ郭は畑地所有者の開墾によって大きな改変を受け、農道も馬車が通れるようにと大幅に整備されている。
天守山の主郭は元来、長方形の郭跡であったと因伯古城跡図誌に記されるが、北東を流れる下市川が氾濫するなどして侵食や崩落が起こり、北東側は抉られ現在の三角形の地形になったと推測される。
そのため主郭の西側、南側には土塁が残り、主郭への備え(防御の高さ)を感じさせるが北側、東側には防御施設が一切見られない不自然な形状となっている。
中山町史では僅かに濠を残すのみとしているが水堀とするかは不明。
写 真
2018年4月28日
遠望
遠望
遠望
遠望
主郭
主郭
主郭
主郭西側土塁
主郭南西土塁
主郭西側虎口
主郭南側虎口
主郭南側虎口
土橋
土橋
主郭堀切
主郭南側土塁
主郭南側土塁
主郭南側土塁
主郭南側土塁
南東堀切
南東堀切
南東堀切
南東堀切
南東堀切
写 真
2013年12月15日






















































