伯耆国 河村郡

みかむりやまじょう

御冠山城

鳥取県東伯郡湯梨浜町宮内、鳥取県東伯郡湯梨浜町宇谷 御冠山城

所在地

鳥取県東伯郡湯梨浜町宮内、鳥取県東伯郡湯梨浜町宇谷

城 名

みかむりやまじょう

御冠山城

所在した山の名に因む名称

別 名

うえしやまつづきのたかやま

羽衣石山続ノ高山

陰徳太平記で羽柴勢が陣を構えた場所

 

うえしやまつづきのじん

羽衣石山続ノ陣

陰徳太平記で羽柴勢が陣を引き払う際の呼称

 

うえしにつづきたるおおやま

羽衣石に続きたる大山

伯耆民談記での記述

築城主

 

吉川元長

羽柴秀吉の軍勢に備えたとする(倭文神社由緒)

 

 

羽柴秀吉

伯耆羽衣石城へ補給のための拠点として設営(陰徳太平記)

築城年

1581年11月21日(天正9年10月25日)

廃城年

1581年11月25日(天正9年10月29日)

形 態

山城

遺 構

郭跡、堀切、土塁、切岸、横堀、土橋、竪堀、虎口

 

山頂、倭文神社、尾根(中)、尾根(南)、宇谷周辺

 

経塚の東に大堀切、尾根(中)古墳群に小堀切

 

尾根(中)の大堀切西側に配置

 

山頂尾根北東側に残存し土橋を伴う

 

山頂尾根北側の横堀に残存するが普請用の仮設土橋が適当か

 

倭文神社神門付近

現 状

山林、倭文神社

備 考

史跡指定なし

縄張図

不詳

城 主

毛利

吉川

吉川元長

織田方の伯耆侵入に備え布陣とする(伯耆一ノ宮倭文神社由緒)

城 主

織田

羽柴秀吉

羽柴秀吉の本陣とするが伯耆羽衣石城への補給のため築いた陣地とする(陰徳太平記)

城 主

織田

蜂須賀家政

伯耆羽衣石城への補給部隊の大将として当陣を拠点とする(陰徳太平記)

参考資料(史料及び文献、郷土史など)

陰徳太平記 合本4[香川正矩 編](明治44年5月 吉田八得)

伯耆民諺記(寛保2年 松岡布政)

伯耆民諺記(写)(昭和23年 原田謙)

伯耆民談記 巻下(大正3年3月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)

伯耆民談記(昭和2年10月 佐伯元吉)

伯耆民談記(昭和35年3月 印伯文庫)

伯耆一ノ宮 倭文神社由緒

年 表

1581年

天正9年

11月21日(旧暦10月25日)

因幡鳥取城が落城し吉川経家らは自刃する。

吉川元春が伯耆馬ノ山砦に部隊を展開する。

吉川元長が倭文神社周辺御冠山城 吉川元長ノ陣に陣を構える。(伯耆一ノ宮 倭文神社由緒)

 

11月22日(旧暦10月26日)

吉川元長に神仏のお告げ(霊夢)があり、倭文神社周辺御冠山城 吉川元長ノ陣の陣を引き払い馬ノ山砦へと戻る。(伯耆一ノ宮 倭文神社由緒)

 

11月23日(旧暦10月27日)

羽柴秀吉が御冠山に本陣を構え、伯耆羽衣石城への物資輸送の拠点とする。

吉川元春によって羽柴秀吉の本陣の偵察が行われる。

戸谷直忠によって羽柴秀吉の本陣及び周辺の兵舎が焼討される。

 

11月24日(旧暦10月28日)

蜂須賀正勝の輸送部隊と今田春政ら数百騎が松崎周辺で戦闘となる。

吉川元春羽柴秀吉の本隊を馬ノ山砦にて釘付けにする。

吉川元長の別動隊2,000騎と織田軍15,000騎が長郷(長江或いは長和田)周辺で対峙するが羽柴秀吉の命令により織田勢は一時撤退する。

織田勢の撤退後は羽柴秀吉の陣営で軍議が行われ、蜂須賀正勝の進言を受け伯州からの撤退を決定する。(陰徳太平記)

伯耆民談記ではこの日より陣払いが行われ播州へ帰陣とある。(伯耆民談記)

 

11月25日(旧暦10月29日)

織田軍の撤退に伴い当城と附城群が放棄される。(陰徳太平記)

概 略

伯耆国一ノ宮 倭文神社の東に鎮座する御冠山の頂部に築かれた陣城と伝える。

陰徳太平記では羽柴秀吉の着陣時に「羽衣石山続ノ高山」、羽柴秀吉の撤退時は「羽衣石山続ノ陣」と呼称しており、伯耆民談記では「羽衣石に続きたる大山」と表現されるが直接的に当城を「御冠山城」とする記述は見られない。

 

御冠山頂部は北側に向け鶴翼(U字)を成し、平坦面の巾は狭小ながら土橋状の長大な形状を成す。

頂部付近の何れかに主郭を置く事で全方位に対応が可能となるが、当城は織田方の本陣及び伯耆国羽衣石城への補給物資搬入が目的とされることから北側に相対する伯耆国馬ノ山砦への対応に特化した城砦が推測される。

吉川元長の退去後、倭文神社周辺も織田方の接収と成れば当城と倭文神社を接続する3条の尾根に特段の戦略性を持たせる必要も無くなるため、郭に兵員を配置する程度の運用に収まったと推定される。

倭文神社周辺及び3条の尾根に係る城域に関しては伯耆国御冠山城 吉川元長ノ陣を参照。

 

陰徳太平記では羽柴秀吉の本陣として登場するが羽柴秀吉を在陣とする確証は得られておらず、羽柴秀吉の在陣は伯耆国十万寺城が有力視されている。

羽柴秀吉の在陣を当城或いは十万寺城と仮定する場合、陰徳太平記を頼ると何れも何らかの齟齬が生じるが、当城への羽柴秀吉の在城は相対する吉川元春馬ノ山砦へと釘付けにする目的で流布された情報が後世に伝わったとも考えられる。

 

防御施設としては御冠山の頂部北東側から北へ下る尾根の途中に横堀と土橋が遺る。

土橋は普請作業に供した仮設の設備と考えられ、羽柴秀吉の到着から極々短期間(約2日)での撤兵に伴い横堀内に残されたままになったものと推定される。

全体的な普請が中途半端に見受けられるのは順を追って個別に完成させるのではなく、城砦全域(御冠山の広範囲)で一斉に普請作業を開始したが極めて短期間であったため何れも完成に至らなかったためと考えられる一方、陰徳太平記では突発的な伯耆侵攻羽衣石城への輸送)であったため、入念な普請は元より検討されていなかった可能性もある。

当城を羽柴秀吉の本陣とするならば、30,000~45,000人が約2日間で普請可能な土木量を検証することで推定地に成り得るかが検討される。

御冠山を含む宮内地内と隣接する宇谷地内にも大規模部隊の駐屯地と推定される平坦地が遺り、神宮寺跡とも伝えられている。

 

伯耆民談記 倭文神社の条

鎮座の山は東郷の湖上御冠山と号す。斯く称する事は社殿は麓に有て山嶺社上に聳えたるか故に御冠山と号するとかや。続に宮内山と云う。

 

伯耆民談記では宮内山が御冠山と呼ばれる由縁を記している。

 

陰徳太平記 巻之六十五 伯州馬野山於吉川羽柴対陣ノ事

(略)元春は徒に後陣の勢を待つベからずとて九月二十日伯州八橋の城に著給い盛重と軍議有て安否の一戦と定られ所に播磨守時節風気に侵され前後不覚の体也ければ嫡子彌八郎元盛、次男又二郎景盛、諸軍勢の兵糧菜肴等を奉る。是於暫、北方の勢を催し給ば杉森少輔十郎元秋、毛利七郎兵衛元康、熊谷伊豆守、嫡孫豊前守、益田越中守、三刀屋弾正左衛門馳来る。三澤為清も十月初旬に馳参じしかば其勢已に六千餘騎に成す。同三日輝元雲州富田に著き給。同五日隆景の著陣を待受急ぎ伯州へ打越元春に力を合可と宣えば隆景、今少待給えと抑留あり。

 

1581年10月17日(天正9年9月20日)

因幡国鳥取城を攻め落とした後は西進するであろう織田軍と備中国の宇喜田家の動きに対し、吉川元春は伯耆国八橋城へと入り杉原盛重と軍議を持つ。

重病であった杉原盛重に代わり杉原元盛杉原景盛の兄弟が諸将の接待から軍勢の兵糧管理に至るまでの采配に当ったとする。

 

1581年9月下旬~1581年10月上旬(天正9年10月初旬)

毛利元秋毛利元康熊谷信直熊谷元直益田元祥三刀屋久祐三沢為清らが八橋城へと集結し、吉川方の総勢は6,000餘騎とする。(陰徳太平記)

 

1581年10月30日(天正9年10月3日)

毛利輝元が出雲国月山富田城へと入る。

 

1581年11月1日(天正9年10月5日)

小早川隆景月山富田城へと入る。

毛利輝元は急ぎ伯耆国へ救援に向かうべきと主張するが小早川隆景に制止されている。

 

陰徳太平記 巻之六十五 伯州馬野山於吉川羽柴対陣ノ事

(略)元春父子は鳥取城兵糧尽て彌難儀に及の由告来けりれば(略)同二十五日、当国馬野山へ陣を替えられ翌日大崎へ陣を移さんとし給う所に鳥取丸山一昨日没落し経家以下自害遂の由告来りぬ。此由を聞給、然於因州へ打上て有無興亡の一戦して経家が孝養に供えんとて打立んとし給所に秀吉、南條元続を見続る可為に近日伯州へ打入八橋の城を陥れ其より雲州富田迄攻入可との覚悟に候。御用心候えと重波を打ち告来りしかば、元春父子四人さあらば是処於秀吉を待受一戦を遂げるべしとて其のまま馬野山に陣を居給う。

 

伯耆民談記 羽衣石の城南条伯耆守数度合戦の事附り滅亡跡方の事

かくて秀吉は鳥取の城を請取宮部善祥坊継潤に與え、一国を平定して帰陣の用意せる所に南条、小鴨より飛札を以て吉川元春馬の山へ着陣、当城へ取り懸るよし、早々加勢を給うべしと告来たる。秀吉其意にまかせ鳥取を出発して鹿野亀井新十郎が城に一宿して翌日仝郡青谷の庄へ押出し鎧畑へ陣をぞすへたりける。

吉川元春は同廿五日人数を馬の山へ押上げ、小勢なれども因州へ打入るべしと軍議し、翌日は因州大崎迄出はりせんとする所に鳥取落城の由聞えしかば此上は是非に及ばず因州へ踏込み存亡を賭して一戦して我が運命を試さんとて将に打立てんとせり。

 

伯耆一ノ宮 倭文神社由緒

(略)戦国時代荒廃、天文二十三年(西暦一五五四年)、尼子晴久社殿を造営、神領七十石寄進。後、神領中絶したが元亀元年(西暦一五七〇年)羽衣石城主南条宗勝これを復旧した。

天正年間、羽柴秀吉を迎え討つべく吉川元春(毛利の武将)、橋津の馬の山に在陣するや当神も兵営とせんとしたが元春の子、元長は霊夢を感じて兵を馬の山に引いている。その後、御冠に入った秀吉との対陣は有名である。

 

1581年11月21日(天正9年10月25日)

因幡国鳥取城への救援に際し、吉川元春が伯耆国馬ノ山砦へと本陣を移す。(陰徳太平記 巻之六十五 伯州馬野山於吉川羽柴対陣ノ事)

吉川元長は倭文神社周辺御冠山城 吉川元長ノ陣へ布陣とある。(伯耆一ノ宮 倭文神社由緒)

同日、織田方の兵糧攻めにより鳥取城が落城する。

 

1581年11月22日(天正9年10月26日)

伯耆民談記では南条元続小鴨元清からの援軍要請を受諾すると羽柴秀吉は伯耆国へと転進し、因幡国青谷鎧畑本陣に本陣を構えたとある。(伯耆民談記 羽衣石の城南条伯耆守数度合戦の事附り滅亡跡方の事)

吉川元春は因幡国大崎城へ本陣を移す予定であったが鳥取城の落城と併せ、近日中に織田軍が伯耆国八橋城周辺に侵攻するとの報を受け、引き続き馬ノ山砦を本陣としている。(陰徳太平記 巻之六十五 伯州馬野山於吉川羽柴対陣ノ事)

倭文神社周辺御冠山城 吉川元長ノ陣に布陣していた吉川元長には神仏のお告げがあり馬ノ山砦へ引き返したとある。(伯耆一ノ宮 倭文神社由緒)

 

陰徳太平記 巻之六十五 伯州馬野山於吉川羽柴対陣ノ事

(略)斯くて秀吉は鳥取丸山の両城を攻落とし一先打入。明年に至て伯州へ攻め入り八橋已下の城共を攻むべしと宣ける所に蜂須賀彦右衛門正勝が嫡子の小六家政進出て此勢に乗て南條兄弟が城へ兵糧を入れられ候え。若渠等兵糧尽て城を落され候いなば重て御味方に属する者候わじと申されける所に吉川元春出陣にて候と伯州より告来ける間。秀吉さらば此勢いに吉川を討取べしとて同二十七日、羽衣石山続の高山へ打上。馬野山を山足に直下して屯を張給。其勢兼ては八萬騎、又は六萬餘騎共聞えしが、左こそいえ只今打出る所の軍兵四萬四五千もや有んずらんと見えたり。(略)(馬野山より)橋一條の外に往復の道を絶ちたり。其陣する所は前に一箇の険峻隘路ものき平山短山にして此程勝軍に伐て其気焱々たる。十倍の大敵を頭上の高山に引受たらんをや。(略)吉川駿河守元春は嫡子元長、次男元氏、三男経言相共に打出給い敵陣を杳に見渡し敵軍兼て六萬餘と聞しが左許は無りけり。四萬に少許や餘るべき。され共吾勢に比せば倍縦幾許ぞや。惟うに秀吉、吾軍を寡也と思慢る気有るべし。(略)橋津川の橋を引落し隠岐隠岐守清家、竹安木工允武道が乗来りて係置たる数百艘の警護船共悉く陸地へ曳上げ櫓械残ず撲折せらる。

 

伯耆民談記 羽衣石の城南条伯耆守数度合戦の事附り滅亡跡方の事

間もなく秀吉、南条小鴨援助の為伯州へ発向する由、注進によって知れければ。然らば此所に待受けんとて馬の山に陣を構えたり。秀吉は鎧畑を立て伯州へ打入り羽衣石に続きたる大山に上りて馬の山を目の下に見下しけるが三萬に余る軍勢なれば夥しき事いわん方なし。吉川は六千に足らざる小勢と云い、敵を笠に受けて一日もこらえ難く見えしがども、元春元来天下に聞えたる勇将なるが上に鳥取を攻め取られたる無念骨髄に徹し居ければ勇気百倍して少しも騒がず。橋津川の橋を焼きはらい、濱手の船を陸に引上げ討死の覚悟を示し待ちかけたり。

 

1581年11月23日(天正9年10月27日)

織田方は当初、年明けからの伯耆侵攻を画策しており、鳥取城を攻略した羽柴秀吉も播州へ引き上げようとしていたが、蜂須賀家政から鳥取城での勝利に乗じて羽衣石城南条元続に補給を行うべきとする進言を受け、羽柴秀吉は転進し当城に本陣を構える。(陰徳太平記 巻之六十五 伯州馬野山於吉川羽柴対陣ノ事)

 

織田方は総兵力を80,000餘騎(伯耆民談記では30,000餘騎)を称したが、吉川元春は敵本陣の陣容から45,000騎程度と見積もっており、橋津川に架かる橋を落とし、馬ノ山砦へ接続する狭小な小道のみを残して織田勢と相対している。

馬ノ山砦を本陣とする吉川元春の軍勢は10月初旬に約6,000騎餘であったが、鳥取城で自刃した吉川経家の弔い合戦として部隊の戦意は織田軍を遥かに上回るものであったとしている。

 

同日の夜、吉川元春吉川元長吉川元氏吉川経言を率いて羽柴秀吉本陣の偵察を行い、敵の陣容及び軍規の確認を行っている。

織田方の部隊が警戒を解いて休息を取る状況を見た吉川元春は翌日に総攻撃を仕掛けてくるだろうと推察しており、ならば慢心し油断する敵主力の隙を突き、総大将である羽柴秀吉の首のみを狙うべしと偵察を終えている。

同じ頃、吉川方の援軍として隠岐清家竹安武道が海路より到着すると全ての軍船を陸に上げ、破壊して背水の陣を敷いている。

 

陰徳太平記 巻之六十五 伯州馬野山於吉川羽柴対陣ノ事

昔、秦の穆公、晋を伐んが為、河を渡り舟を焚て必死を示せし。強勇にも前歩を譲らじと覚えたり。元春父子、常は小敵を見ては庸将の大敵に逢が如く恐れ、大敵に対しては愚将の小敵を見が如く勇み給けるが此時も又、大きに進み給。少も臆したる気色は無りくれば哀、大剛将やと敵も味方も覚ず吐舌寒心す。熊谷伊豆守は豊前守に向て(略)橋を引、櫓械を打折給しは項羽蘆舎を焼き、船を沈めしに等しく、又、韓信が背水の陣に協えり。味方の為に悪地を悪地と作ば愚将の所業也。今かかる悪地を好地と成は良将の謀也。将と云、兵と云、地の利と云、味方必勝現然たるぞと大きに勇みければ是を聞く輩彌死を軽んじ一足も敵の方に進て相戦い名を滅後萬年に掲可と烈気一段の輝光を益り。

 

背水の陣については中国の春秋時代、秦と晋との戦い(韓原の戦い)における穆公の故事を例示している。

黄河を渡り終えた秦軍は舟を焼き退路を絶つことで前進以外の活路を無くし、難敵が前に在っても進まざるを得ない状況(死地)を作り出すことで普段以上の力を引き出したとしている。

穆公の背水の陣にはもうひとつの伝承があり、秦の将軍であった孟明視は友軍の渡河中に舟へ火をかけている。

火をかけられた船上の友軍が生き延びるためには敵軍の船を奪うか早急に河岸へ上陸するかの選択を強いられ、時間的猶予のない短期決戦へと追い込み更なる死地を作り出している。

戦況を見誤れば全滅必至と博奕のような采配であったが策は成り、秦軍は晋軍を打ち破っている。

 

吉川元春の命じた橋津川に架かる橋の破壊及び友軍の軍船破壊に熊谷元直は疑問を持つが、熊谷信直が背水の陣について解説を述べている。

吉川元春が橋を落とし舟を破壊したことは中国の秦時代、鉅鹿の戦いにおける楚の項羽による破釜沈舟(項羽破釜)や井陘の戦いにおける韓信の采配に通じるとしている。

項羽鉅鹿城英布救援の際、黄河の渡河中に兵達へ3日分の食料以外は調理道具を含め全て棄てるよう指示している。渡河後は船の破壊も命じており、楚軍は安易な食糧調達が困難となったことから将兵は死に物狂いで戦い秦軍を打ち破っている。

韓信は井陘の戦いの際、兵法では定石とする「山を背に河を前に」とする場所への布陣ではなく河川を背に寡兵で布陣している。漢軍が緒戦で敗戦を装うと城内に立て籠る趙軍は「韓信は兵法も知らない素人」と侮り、一息に漢軍を滅ぼさんと迎撃に転じている。

圧倒的な兵力で攻め寄せる趙軍に対し漢軍は退路を絶つことで鬼気迫る抵抗を見せ、趙軍主力を城外へと釘付けにした隙に別動隊が趙軍本城を落とし勝利している。

 

何れも中国の秦時代末頃の故事であるが、吉川元春の狙いは後者の韓信による背水の陣と考えられる。

吉川方が布陣する馬野山砦には当城から続く小道のみで一度に投入できる戦力が限られるため、寡兵でも大軍の足止めが可能とした上で別動隊が本陣の羽柴秀吉の首を狙う算段と合致する。

橋津川の橋や舟を破壊したことは織田方に西側や東郷湖から迂回しての攻撃は無いと思い込ませることが目的であり、馬野山砦から当城へ続く間道の存在や隠岐清家竹安武道の援軍到着前より予め舟が隠されていた可能性も考えられる。

尚、前者の項羽による背水の陣は退路を封じた策ではなく単純に物資の補給を困難にさせたもので、将兵を死地に置くとするよりは不足した物資の略奪を促す過程で素早く敵を打ち破らせることを狙った策となる。

 

陰徳太平記 巻之六十五 伯州馬野山於吉川羽柴対陣ノ事

雲伯石の国人、三澤三郎左衛門父子、三刀屋弾正左衛門、其の外会合して「秀吉、鳥取丸山を陥勝誇たる大軍にて味方の頂の上に打出らる。然に味方は城を落され勇気後れたる小勢の而も山下に陣取たるをや勝敗論ずして知られたれば先来鋭て避られ重て隆景と勢を並せて合戦を遂給様に申すべし」と評定して益田越中守を先に立て本陣へ馳参ず。渠等兼ては元春も味方勝利なき道を思い給い其気顔色に顕るべき。間、其機嫌を窺い諌言を納べしと思設けしに。(略)四方山の話、心静かにし給くる。(略)国人等の案に相違して覚えければ中々衆議せし諌静云出すべき様もなく退出しけるが誠に元春は智仁勇相兼給たるとは云ながら中にも剛強第一に御座す物哉。周武王二萬二千五百人以紂之億萬之衆に勝、魏の五萬秦之五十萬破して以て思えば勝敗の理は大将の器の善悪に在て軍士の衆寡に依ず。

 

吉川元春らが羽柴秀吉本陣の偵察中、馬ノ山砦では出雲、伯耆、石見の国人が軍議を行っている。

相対する羽柴秀吉の軍勢に対して味方は寡兵で士気も及ばないことから積極的に戦わず、小早川隆景の軍勢の到着を待つべしと評定を決し、益田元祥が国人衆の総意を上申しようとするが偵察から戻った吉川元春は先に夜食を指示している。

今宵は三尺許の鮭が献上されたとあり、鮭を烹調(煮つけ)にして同席した諸将に振舞っている。

陣内は松明で明々と照らされ、駐屯する兵にも食事と酒を与え暖を取らせている。

吉川元春は相対する織田方の陣容について極寒の山頂は寒さが全身に堪えるだろうと談笑し、味方の陣容と比較することで士気の維持に努めている。

益田元祥吉川元春の振舞いを見るに、現状が国人衆の見立てとは違っていることを確信し消極的な発言はせず自らの陣幕へ戻ったとある。

 

ここでも兵力差について中国の故事が例示され、殷の紂王700,000騎に周の武王48,300騎(陰徳太平記では周軍を22,500騎、殷軍は数えきれないとする)が勝利したこと、秦の王賁600,000騎と魏の魏王假100,000騎による大梁の戦い(陰徳太平記では秦軍は500,000騎、魏軍は50,000騎とする)が示されている。

後者の魏軍は3ヶ月ほど善戦するが、最後は水計により壊滅するため例示としてはやや不適切と考えられる。

 

陰徳太平記 巻之六十五 伯州馬野山於吉川羽柴対陣ノ事

(略)熊谷信直が郎等、戸谷志摩守と云う死生知らずの溢者あり。敵陣を見渡して立たりけるが秀吉の陣、如何に用心堅固にず共。吾は今宵本陣の傍らに火を付んずるものをと云い、朋友共是を聞て向後は天下の兵馬の上に立べしと称する。秀吉何ぞ命令に油断して汝に火を付けられ事の有べきと云ければ志摩守は千言萬語して詮もなし。待て物を見よやとて頓て其夜忍入り云しに違ず秀吉本陣の傍に火を付。陣屋四五軒焼立、熊谷が手の者戸谷志摩守直忠、秀吉の本陣に火を付帰候也。

 

吉川元春らが夜食を取る頃、熊谷信直の部将、戸谷直忠羽柴秀吉の本陣付近で焼き討ちを仕掛け、4~5軒の陣屋を焼いたとある。本来はここで帰陣するつもりであった戸谷直忠は敵軍に備えが無く油断も目に余る陣容であったことから続けて羽柴秀吉の本陣も焼き討ちしている。

焼き討ちが成功すると戸谷直忠は声高らかに織田方の兵を罵りながら暗闇へと消え、馬ノ山砦へと帰陣している。

織田方の兵は戸谷直忠を追ったが闇夜で見失ったため本陣の消火に専念したとあり、建物を失った織田方の兵は寒風が吹き雪が覆う中の駐屯は筋骨に堪えるだろうと憐れんでいる。

 

陰徳太平記 巻之六十五 伯州馬野山於吉川羽柴対陣ノ事

元春、明なば敵必定寄来るべきに待受一戦の際に切崩すべきぞとて諸士に下知して夜中に総陣の前に隍を穿ち芝土手を築柵を結せ突て出べき門二箇所に明て敵の来ん道筋の雪悉く掃わせ明る夜晩しと待給う。斯共知りて秀吉は敵少数なれば必定。仝夜引退べきを追懸打取ん。各油断すなと士卒に触伝えて外聞物見隙なく出し、敵今や退くと待給えり。

 

戸谷直忠による夜襲の成功から吉川元春は夜明けにも織田方の総攻撃があると睨み、本陣前の堀を深くし土塁に柵を立てるなど防備を強化している。

その上で2カ所の門を開け放ち、更には門へと続く雪道を除雪して進軍し易くするなど空城の計を披露している。

対する羽柴秀吉吉川元春の空城の計に対し、吉川方に万全の備えがあると見せかけた小細工で撤退のための時間稼ぎが狙いであると推察しており、吉川元春が撤退の動きを見せた時が追撃の好機と捉え物見と間諜を最大限動員すると吉川方の撤退の動きを待っている。

この場面が「馬の山の対陣」と伝える吉川元春羽柴秀吉の知恵比べの見せ場となる。

 

陰徳太平記 巻之六十五 秀吉敵城批判並退軍之事

(元春は)爐中に柴闊と焼せ帯解き紐を耳けて背を炙り高鼾して寝給う。さらば油断の体と見れば元長兄弟終夜夜行し給いけり。(略)元春は宿病発りたりとて(略)南條が城に秀吉加勢を入れられ因、渠龍の水を得たる勢を成と聞ゆ。其間に在て機後れたる小勢を以て何の恐る気色もなく士卒若逃眼をや遣わんずらんと。兼て之察高臥安眠し給う事、往時の孔融が北海の太守たりし時、袁譚が為に攻所、流矢雨の如きに集り矛戟内に接りしか共、(孔)融、几憑安座読書して自如たりしに等し。

 

1581年11月24日(天正9年10月28日)

早朝、吉川元春の撤退を待つ羽柴秀吉であったが未だ吉川方の陣営に動きはなく、吉川元春は囲炉裏の火に当たり高鼾をあげ、陣内の警戒も薄くする一方、吉川元長吉川元氏吉川経言の兄弟は隅々まで眼を光らせていた。

また、陣内には吉川元春が重病とする説も流れ定期的に警戒が緩くなる動きも見受けられたが、吉川兄弟が常に監視を行っており陣容の決定的な綻びは見られなかったとある。

吉川元春の振舞いは中国の後漢末期の故事で孔文挙(孔融)袁顕思(袁譚)に攻められた際、外では激しい戦闘が行われているのを他所に、孔文挙は椅子に座り手を肘掛けに置き、外の戦が他人事かのように読書を続けた姿に例えている。(資治通鑑及び九州春秋)

孔文挙は三国志に登場する人物の中でも変わり者のひとりであり、吉川元春の振舞いが如何に常人離れしたことであるかを引き立てる例示となっている。

 

陰徳太平記 巻之六十五 秀吉敵城批判並退軍之事

(略)二十八日に至りて秀吉、蜂須賀小六家政を大将として南條が羽衣石の城へ兵糧を運載させるる。家政が謀に騎馬数百騎に兵糧一二斗宛負せて其上に勇士を乗せ城中に乗込んとて峰伝に馳行勢雲の如き霞に似たり。元春、井上平右衛門、山縣宗右衛門に鉄砲数百挺相副、今田玄蕃允春政を検使として松之崎邊へ打出。鉄砲打ち係り挑て見るべし。(略)山縣は敵の色を考え見て軽く働きぬ。井上は深入りして敵の多勢懸り来れ共少も引ず今田と一所に担いたり。(略)

 

1581年11月24日(天正9年10月28日)

鳥取城で行われた兵糧攻めの影響から西因幡(鹿野周辺)及び東伯耆(八橋郡・久米郡・河村郡)では物流の停滞と物資の不足、特に兵糧の確保に難儀する事態となっており、織田方に与した南条元続の居城、羽衣石城でも兵糧不足が深刻であり、南条元続小鴨元清羽柴秀吉に対して補給を要請している。

羽柴秀吉南条元続の求めに応じ、蜂須賀家政を大将に羽衣石城への補給を開始する。

吉川元春井上平右衛門山縣宗右衛門に鉄砲数百挺を副え、今田春政を検使として輸送を妨害すべく松崎周辺で織田方の輸送隊を襲撃している。

井上平右衛門山縣宗右衛門今田春政は同月中旬頃、北国で同じような吹雪の中で織田軍と戦闘しており、その時は千代延與介の活躍により萬死三生を得る危うい戦いであったが初戦で大きな戦果を挙げたとしている。

北国での戦は今田春政らが敵主力を引き付ける形となり、千代延與介が吹雪による視界不良に乗じて単騎で敵本陣の大将を討ち取ったとしている。

吉川元春はこの戦を知らない羽柴秀吉であれば馬ノ山砦が劣勢と見るなら更に主力を投入すると読み、吉川元長の別動隊を羽柴秀吉の本陣へと向かわせている。

 

陰徳太平記 巻之六十五 秀吉敵城批判並退軍之事

馬野山の本陣へは敵多勢打出。味方已に難儀に及ぶ由告来たりける間、元春は敵の出けるこそ幸いなれ。先に元長馳向せ候え。吾は秀吉の本陣の様体見計て打出べしぞと宣うに依て元長、元氏、経言打連て出給えば熊谷伊豆守信直、嫡孫豊前守元直、杉原彌八郎元盛杉原又二郎景盛等相従て二千餘騎、松之崎へと進だり。南條伯耆守元続、小鴨左衛門進元清、羽柴美濃守秀長郷に向かいて。只今一二千許にて打出たるは吉川元長兄弟と見えて候。(略)藤堂與右衛門、井合次郎右衛門、中村孫兵忠、神子田甚右衛門、亀井武蔵守等、吾先にと山下へ下伝。其勢一萬四五千騎きたり。驚破芸州勢に避易して引退可と思所に元長兄弟少しも怯まず。静り返て御座すを見て、今日こそ京芸弓矢の勝負は決せらるべくれと。(略)

 

吉川元春が織田方の主力を馬ノ山砦で引き付ける頃、別動隊2,000騎を率いた吉川元長は長郷(長江或いは長和田)周辺で羽柴秀長南条元続小鴨元清の部隊と遭遇している。

更に山上から藤堂與右衛門ら15,000騎が下山してきたため吉川元長は撤退すると思われたが、大軍を前に全く怯むことなく雌雄を決する構えを見せる。

対峙する織田方の大将、羽柴秀長羽柴秀吉から軍使があり、吉川方は小勢なれど弔い合戦を挑もうとする相手に戦を仕掛けるのは危ういことであり、適切な時期に戦うことが上策として織田方は一旦撤退している。

吉川元長と相対した宮部継潤は吉川兄弟を「毛利元就の武勇三代は滅ず」と驚嘆している。

 

陰徳太平記 巻之六十五 秀吉敵城批判並退軍之事

(略)中村、神子田等、此程小勇に伐って元春あの小勢にて何程の事の有べしなど云罵りたりしが宮部が正論を聞く。(略)敵陣へ夜討せんより味方夜討に為所不用心し給え。宿も熊谷が手の者に秀吉の本陣焼かれたるは如何にと云けるにぞ。皆口を噤いで音もせざりける。さる程に秀吉、南条元続を近付、敵陣の間何十町か有べき勢の程も美濃守が陣取程もや有ん。多しと雖も六七千には過ベからずと思ばいかにと宣へば元続、元春吾勇に誇り小勢を以て遠路を歴て来り候こそ天の與る所にて候へ早く切崩され候べし。吉川父子だに滅亡候わば小早川などは一支も支ず逃亡たるべき間、破竹の勢を迎えて雲州より芸州迄は靡然として御威光に畏服仕可候事、当年春頃の間を過候わじと云いければ秀吉莞爾と笑て御座しける(略)さて、秀吉、元続が勧むる所、実左も有可と思給ければ今日明日の間に敵陣を切崩される可とて宗徒の侍大将を召集め軍擬し給けるに蜂須賀彦右衛門進み出て、元春父子は当世の大剛将也と。(略)鳥取丸山両城を攻取給たれば只今引退給とても全く御弓矢の瑕瑾にて候わじと勝敗進退の事理分明に諌めければ秀吉此儀に心服し給てさらば諸所の雲不積其先にとて同二十九日、羽衣石山続きの陣を引払、因州鳥取に至て軍を旋し、夫より播州姫路をさして上り給。

 

伯耆民談記 羽衣石の城南条伯耆守数度合戦の事附り滅亡跡方の事の条

斯くて対陣三日に及びたるに秀吉、此様子を見下し敵是程に思い切ったる上は小勢なりとて卒爾には戦い難し。万一喰付かれ長陣に及びなば土地不案内の味方、雪中に向いての進退自由ならず敗軍の端ともならん。早く引取るべしと軍議有って南条、小鴨を召出し敵小勢なれば攻寄る事有るべからず。来春に至らば重て当国へ打入西伯耆より雲州筋を平定すべし、其間はおちどなき様籠城すべしとて制法堅く申含め鉄砲三百挺、弾薬添えて加勢し、兵糧を丈夫に入置き、廿八日陣を払て播州さして帰陣ある。

 

羽柴秀吉は長江或いは長和田(長郷)周辺から戻った諸将を召集し軍議を行う。

軍議には羽柴秀吉蜂須賀正勝(蜂須賀彦右衛門)宮部継潤(宮部善乗坊)中村一氏(中村孫兵忠)神子田正治(神子田甚右衛門)南条元続らが参加しており、中村一氏神子田正治が相手は小勢と罵り夜討を主張するが宮部継潤は逆に敵勢の夜討を警戒するべきと反対している。

特に羽柴秀吉の本陣が戸谷直忠によって焼き討ちを受けた事は大問題とし、主戦派の諸将も静まり返っている。

羽柴秀吉馬ノ山砦までの吉川勢は6,000~7,000騎程度と考え、羽柴秀長の主力部隊で相対する必要性の有無を南条元続に問い質している。

南条元続はここで吉川父子を討てば小早川家も瓦解するであろうから、そこに破竹の勢いを以て攻め入れば今年の春頃には自然と芸州一帯の平定も成るであろうと答えている。

これには羽柴秀吉も莞爾の笑みを浮かべたが、続けて毛利方に与する敵方の戦力配置及び諸城の守将を問い質している。

伯耆国河口城には約150騎程で山名久氏が籠っており、織田方の兵力を以てすれば落とせるであろうが山名久氏らは決死の覚悟で抵抗するため簡単にはいかないとしており、前年に6,000騎を率いた南条元続河口城に立て籠もった150騎の山名久氏に敗れている。

伯耆国松崎城には小森久綱を在番とするが、夜は篝火も無く大手門は不用心に開け放たれ、人の出入りも見られず既に小森久綱は逃走したとする体を見せているが、敵を誘い込むための装いで迂闊に近付けば城内から攻撃を受けるだろうとして容易に近付かないよう返答している。

その他、伯耆国打吹城、伯耆国篠山城にも用心するように報告すると羽柴秀吉は冷笑し機嫌を損ねている。

軍議は翌日の総攻撃で馬ノ山砦及び周辺諸城を一気に制圧する方針に傾く中、蜂須賀正勝は長郷(長江或いは長和田)周辺における吉川元長ら将兵の鬼気迫る覚悟に吉川元春の用兵が加われば自軍の損害も計り知れないものになるだろうと羽柴秀吉を諫め、最終的に蜂須賀正勝の進言を受け入れる形で撤兵を決定する。

伯耆民談記では既に羽衣石城への鉄砲、弾薬、兵糧の補給が完了したとして当日中に撤退を始めている。

 

1581年11月25日(天正9年10月29日)

当城の本陣は引き払われ、織田方の軍勢は因幡方面へと撤退を開始する。

羽柴秀吉の撤退に南条元続小鴨元清は落胆し南条方の戦意は著しく低下している。

 

陰徳太平記 巻之六十五 秀吉敵城批判並退軍之事

(略)斯て元春父子四人も霜月朔日、馬野山を開陣し給えば輝元、隆景も雲州富田にて待受給。共に芸州へぞ帰り給う。

 

1581年11月26日(天正9年11月1日)

吉川元春羽柴秀吉の撤退を見届けた後、馬ノ山砦の陣営を解いている。

小寺元賢馬ノ山砦の城番を命じると吉川元長吉川元氏吉川経言を伴い月山富田城へ帰陣する。

月山富田城毛利輝元小早川隆景と合流し芸州へ戻ったとある。

 

1581年12月25日(天正9年11月30日)

小寺元賢小寺元武の正当な後継者とするよう毛利輝元から吉川元春へと書状が送られている。

書状では小寺元賢の数年に亘る伯耆国内での忠勤に感謝の意が添えられている。

 

1582年1月4日(天正9年12月10日)

小寺元賢馬ノ山砦への在番を承諾したことに吉川元春は安堵し、来春の出陣の際に何かあれば頼るようにとする旨の書状を送っている。

写 真

2024年4月28日

尾根(南)土塁

尾根(南)土塁

尾根(南)土塁

尾根(南)土塁

裏参道

裏参道

裏参道

裏参道

裏参道

裏参道

裏参道

裏参道

裏参道

裏参道

裏参道石垣

裏参道石垣

堀切

堀切

堀切

堀切

主郭尾根(北東)横堀

主郭尾根(北東)横堀

主郭尾根(北東)横堀

主郭尾根(北東)横堀

主郭尾根(北東)横堀

主郭尾根(北東)横堀

主郭尾根(北東)横堀

主郭尾根(北東)横堀

主郭尾根(北東)横堀土橋

主郭尾根(北東)横堀土橋

主郭尾根(北東)横堀土橋

主郭尾根(北東)横堀土橋

主郭尾根(北東)横堀土橋

主郭尾根(北東)横堀土橋

主郭尾根(北東)横堀土橋

主郭尾根(北東)横堀土橋

郭跡(土橋以北)

郭跡(土橋以北)

郭跡(土橋以北)

郭跡(土橋以北)

郭跡(土橋以北)

郭跡(土橋以北)

郭跡(土橋以北)

郭跡(土橋以北)

郭跡(土橋以北)

郭跡(土橋以北)

郭跡(土橋以北)

郭跡(土橋以北)

郭跡(土橋以南)

郭跡(土橋以南)

郭跡(土橋以南)

郭跡(土橋以南)

郭跡(土橋以南)

郭跡(土橋以南)

郭跡(土橋以南)

郭跡(土橋以南)

郭跡(土橋以南)

郭跡(土橋以南)

郭跡(主郭)

郭跡(主郭)

郭跡(主郭)

郭跡(主郭)

郭跡(主郭)

郭跡(主郭)

郭跡(主郭)

郭跡(主郭)

郭跡(主郭)

郭跡(主郭)

郭跡(主郭)

郭跡(主郭)

郭跡(主郭)

郭跡(主郭)

郭跡(主郭)

郭跡(主郭)

郭跡(主郭)

郭跡(主郭)

郭跡(主郭)

郭跡(主郭)

郭跡(主郭)

郭跡(主郭)

郭跡(主郭)

郭跡(主郭)

郭跡(主郭)

郭跡(主郭)

郭跡(主郭)

郭跡(主郭)

郭跡(主郭)

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