伯耆国 河村郡
みかむりやまじょう でん きっかわもとながのじん
御冠山城 伝 吉川元長ノ陣
所在地
鳥取県東伯郡湯梨浜町宮内
城 名
みかむりやまじょう きっかわもとながのじん
御冠山城 吉川元長ノ陣
吉川元長の在陣に因む伝承
築城主
吉川元長
羽柴秀吉の軍勢に備えたとする
築城年
1581年11月21日(天正9年10月25日)
廃城年
1581年11月25日(天正9年10月29日)
形 態
山城
遺 構
郭跡※、堀切※、土塁※、切岸、横堀※、虎口※
※伯耆一ノ宮 倭文神社周辺及び尾根(中)、尾根(南)
※経塚の東に大堀切、尾根(中)古墳群に小堀切
※大堀切の西側に配置されているため堀切が切通ではなかったことが判る
※尾根(北)、尾根(中)の間に見られる。御冠山城の竪堀が適当か
※伯耆一ノ宮 倭文神社神門付近
現 状
山林、倭文神社
備 考
史跡指定なし
縄張図
不詳
城 主
毛利
吉川
吉川元長
織田方の伯耆侵入に備え布陣とする(伯耆一ノ宮 倭文神社由緒)
城 主
織田
羽柴秀吉
吉川元長の退去後に接収か(陰徳太平記)
参考資料(史料及び文献、郷土史など)
陰徳太平記 合本4[香川正矩 編](明治44年5月 吉田八得)
伯耆民諺記(寛保2年 松岡布政)
伯耆民諺記(写)(昭和23年 原田謙)
伯耆民談記 巻下(大正3年3月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
伯耆民談記(昭和2年10月 佐伯元吉)
伯耆民談記(昭和35年3月 印伯文庫)
伯耆一ノ宮 倭文神社由緒
年 表
1581年
天正9年
11月21日(旧暦10月25日)
因幡鳥取城が落城し吉川経家らは自刃する。
吉川元春が伯耆馬ノ山砦に布陣する。
吉川元長は倭文神社周辺に陣を構えたとする。(伯耆一ノ宮 倭文神社由緒)
11月22日(旧暦10月26日)
吉川元長に神仏のお告げ(霊夢)があり、当陣を引き払い馬ノ山砦へと戻る。(伯耆一ノ宮 倭文神社由緒)
11月23日(旧暦10月27日)
織田方の羽柴秀吉が伯耆国御冠山城を本陣とし、伯耆羽衣石城への物資輸送の拠点とする。
吉川元長の退去後、当陣も織田方が接収か。
11月26日(旧暦10月28日)
伯耆民談記では織田軍の撤退が始まる。
11月25日(旧暦10月29日)
織田軍の撤退に伴い御冠山城の本陣と併せ放棄される。
概 略
西進する織田勢の進軍を食い止めるため、伯耆国一ノ宮 倭文神社及び御冠山へと続く東部尾根周辺に吉川元長の布陣を伝える。(伯耆一ノ宮 倭文神社由緒)
倭文神社を基軸とする陣容ならば境内を仮舎とし、吉川元長の宿所が倭文神社本殿と推測される。
倭文神社から東に聳える御冠山を土壁と見立て、境内から続く3条の尾根を戦況に応じて使い分ける思惑が見受けられる。
尾根(北)は倭文神社北側の谷部から御冠山へと接続するための連絡路が考えられる。
尾根上に防御施設が見当たらないことから敵軍に備えるものではなく馬ノ山砦からの友軍を招き入れる用途が推定される。
尾根(中)は倭文神社境内と尾根上に布陣し西側~南側~東側からの敵襲へと備える。
西側は崖部を切岸として境内の本陣を以て迎撃、南側~東側は尾根上から射撃、投石にて牽制し、西側へ迂回する敵勢を虎口(神門付近)にて挟撃する。
尾根上には古墳(円墳)も多く、中程には大堀切も存在することから特に人手が加わっている。
尾根(南)は南側~東側からの敵勢に備えた構造であるが、東側には伯耆国番城の帯郭状連郭に似た構造を持つ地形が見え、帯郭の巾は狭小だが南北に長く10段以上で構成されている。
御冠山から続く尾根には同様の地形が幾つか見られるものの、何れも果樹園であったことから城跡からの転用とは推測し難く、尾根(南)の連郭に関しては1960年代以前の航空写真に見えないことから1970年代の造作が濃厚である。
尾根(南)上にも古墳が多く、尾根中程には城郭の基礎のような形で方墳と円墳が遺る。
古墳は容易に軍事転用が可能で天面を郭、石棺や石室を塹壕、法面を切岸、環濠を空堀として即時利用が可能である。
吉川元長の在城を伝える伝承では限られた日数の中で最低限の城様を整えたと推定される。
倭文神社を本陣(主郭)として尾根(北)は手付かず、尾根(中)は経塚周辺の古墳転用と東大堀切の普請、尾根(南)は古墳の転用程度に留まるものと推測される。
伯耆一ノ宮 倭文神社由緒
然し戦国時代荒廃、天文二十三年(西暦一五五四年)、尼子晴久社殿を造営、神領七十石寄進。後、神領中絶したが元亀元年(西暦一五七〇年)羽衣石城主南条宗勝これを復旧した。
鎌倉時代頃
往古、倭文神社は1,000石の社領を有し社殿も広大であったが戦国時代に荒廃とある。
1554年(天文23年)
尼子晴久によって倭文神社の社殿が造営される。
天文年間、東伯耆では尼子方の吉田左京亮と在地国人の南条宗勝による抗争も絶えなかったことから倭文神社の再建は城郭の性質を併せ持たせた建造とも推測される。
1570年(元亀元年)
尼子氏滅亡の前後、倭文神社は再び荒廃するが南条宗勝によって再興される。
陰徳太平記 巻之六十五 伯州馬野山於吉川羽柴対陣ノ事
(略)元春父子は鳥取城兵糧尽て彌難儀に及の由告来けりれば(略)同二十五日、当国馬野山へ陣を替えられ翌日大崎へ陣を移さんとし給う所に鳥取丸山一昨日没落し経家以下自害遂の由告来りぬ。此由を聞給、然於因州へ打上て有無興亡の一戦して経家が孝養に供えんとて打立んとし給所に秀吉、南條元続を見続る可為に近日伯州へ打入八橋の城を陥れ其より雲州富田迄攻入可との覚悟に候。御用心候えと重波を打ち告来りしかば、元春父子四人さあらば是処於秀吉を待受一戦を遂げるべしとて其のまま馬野山に陣を居給う。
伯耆一ノ宮 倭文神社由緒
天正年間、羽柴秀吉を迎え討つべく吉川元春(毛利の武将)、橋津の馬の山に在陣するや当神も兵営とせんとしたが元春の子、元長は霊夢を感じて兵を馬の山に引いている。その後、御冠に入った秀吉との対陣は有名である。
1581年11月21日(天正9年10月25日)
因幡国鳥取城の落城を想定し吉川元春は伯耆国馬ノ山砦へと本陣を移す。
翌日に因幡国大崎城へ本陣を移す予定であったが鳥取城が落城したため、引き続き馬ノ山砦を本陣としている。(陰徳太平記 巻之六十五 伯州馬野山於吉川羽柴対陣ノ事)
倭文神社由緒では兵営のため吉川元長が倭文神社周辺に在陣と伝える。
1581年11月22日(天正9年10月26日)
吉川元長に神仏のお告げ(霊夢)があり、当陣を引き払い馬ノ山砦へ引き返したとある。(伯耆一ノ宮 倭文神社由緒)
陰徳太平記 巻之六十五 伯州馬野山於吉川羽柴対陣ノ事
秀吉さらば此勢いに吉川を討取べしとて同二十七日、羽衣石山続の高山へ打上。馬野山を山足に直下して屯を張給。其勢兼ては八萬騎、又は六萬餘騎共聞えしが、左こそいえ只今打出る所の軍兵四萬四五千もや有んずらんと見えたり。
1581年11月23日(天正9年10月27日)
羽柴秀吉の本隊が御冠山に本陣を構える。
倭文神社及び吉川元長が陣を構えた周辺施設も織田方へ接収されたと推測される。
伯耆民談記 羽衣石の城南条伯耆守数度合戦の事附り滅亡跡方の事の条
斯くて対陣三日に及びたるに秀吉、此様子を見下し敵是程に思い切ったる上は小勢なりとて卒爾には戦い難し。万一喰付かれ長陣に及びなば土地不案内の味方、雪中に向いての進退自由ならず敗軍の端ともならん。早く引取るべしと軍議有って南条、小鴨を召出し敵小勢なれば攻寄る事有るべからず。来春に至らば重て当国へ打入西伯耆より雲州筋を平定すべし、其間はおちどなき様籠城すべしとて制法堅く申含め鉄砲三百挺、弾薬添えて加勢し、兵糧を丈夫に入置き、廿八日陣を払て播州さして帰陣ある。
1581年11月24日(天正9年10月28日)
伯耆民談記では織田方の撤退を当日からとしている。
陰徳太平記 巻之六十五 秀吉敵城批判並退軍之事
(略)同二十九日、羽衣石山続きの陣を引払、因州鳥取に至て軍を旋し夫より播州姫路をさして上り給。
1581年11月25日(天正9年10月29日)
織田方の軍勢が因幡方面へと撤退を開始する。
御冠山の本陣が廃棄されており、当陣も併せて放棄されたと推測される。
写 真
2025年1月19日(倭文神社周辺)