所 属
伯耆山名
▶
但馬山名
▶
毛利
南條
▶
毛利
杉原
よみがな
人物名
こもり いずみのかみ まさたか
小森和泉守方高
別 名
こもり いずみのかみ たかまさ
小森和泉守高方
陰徳太平記に記載
官 途
和泉守(陰徳太平記)
出身地
不詳
生 年
不詳
没 年
1580年10月20日(天正8年9月20日)
氏
源
姓
朝臣
諱
方高
列 伝
東伯耆の国人。伯耆国松崎城の城主。
陰徳太平記 巻第五 大内勢銀山桜尾ノ両城を囲む 付 次休蔵主のノ事
(略)経久は当正月中旬より伯耆国へ発向し山名の領内、與土井、天満、不動之岳、尾高、羽衣石、泉山等の数ヶ所の城郭を攻め落されける間、南条豊後守宗勝、小鴨掃部助、小森和泉守、山田、行松、福頼等の者共、国を去て因幡但馬へ引き退き、山名右衛門督政豊を頼て在とかや。(略)
1524年(大永4年正月)
尼子経久が伯耆国へと侵攻を開始する。(大永の五月崩れ)
伯耆山名氏に与した東伯耆の諸城は陥落し、自身も国外へ退去とする。(陰徳太平記)
陰徳太平記 巻第三十七 伯耆国日野之不動ガ嵩夜討事
永禄七年三月上旬。三村修理ノ亮家親、香川左衛門ノ尉光景、伯耆国へ越ける間、南條、山田、小森、行松等相従て所々を打回り。(略)
1564年(永禄7年3月上旬)
伯耆国不動ヶ嶽城周辺の戦いに毛利方の与力として参戦する。
陰徳太平記 巻第四十六 出雲国布部合戦之事
元亀元年正月、尼子勝久退治有可とて(略)二月八日、輝元、隆景は石州津賀に着陣あれば(略)又、南條、小鴨、山田、北谷、福頼、福田、小森等は武田高信、尼子と一味して伯州へ打入んとするに因みて彼圧えに皆己が城を守て一人も出雲へは赴ず。(略)
1570年3月14日(元亀元年2月8日)
出雲布部山合戦に於ける東伯耆の国人衆の動向について国人衆のひとりとして登場する。
伯耆国では尼子再興軍の動きに乗じて侵入する勢力に悩まされており、武田高信を始め東伯耆の国人衆は自身の城を守るので手一杯とあり、布部山の合戦には赴けなかったとしている。
伯耆民談記之巻 第十 河村郡 古城之部
一、羽衣石城
(略)天正三年春の頃、宗勝出雲の富田城に到り吉川元春に謁し夫より杵築大社へ参詣して帰途に大山へ登山し、諸々順礼して尾高の城へも立寄りける。(民諺記に八橋の城とあり)
城主杉原播磨守、殊に餐応して酒宴に及び立別れしが途中より発病し羽衣石に帰城の後、頻りに五体悩乱し種々治療を施すと雖も更に其験なく危篤に及びけり。(略)吾、今度の病、全く杉原が毒害と覚えたり。日頃彼と殊なる遺恨もなけれども、彼れ吾を害し其後汝等若輩なるに乗じ巧に毛利家へ讒言し当家を滅ぼし伯州一円兼領すべきの陰謀と覚えたり。(略)吉川元春大に驚き、南條は無二の者なり。定めて一旦の誤りなるべし。汝、工夫を廻らし和睦を調うべしと申し渡されけれども、杉原、素より南條と不和なるによって事を幸いにして種々に讒訴し和談のこと思もよらず。かくて南條は専ら籠城の用意を成し長和田表を差塞ぎ、堀を廻らし塀をかけ、岩尾の峠より五郎谷へ砦を構え、羽衣石四十八谷の口々を堅めたり。其外、高野宮の城には重臣山田佐助、松崎の城には小森和泉守、河尻の城には山名刑部太夫久氏、田尻の城には南條兵庫守元周、堤の城には山田出雲守重直、倉吉の城には山名小三郎氏豊、岩倉の城には小鴨左衛門尉元清を入置き(略)
1575年(天正3年春頃)
伯耆民談記では出雲国月山富田城から帰途に就く南条宗勝が伯耆国尾高城へと立ち寄ったが、杉原盛重による毒殺を疑い毛利家と南条家の不和が伝えられる。
遺言には毛利家へ忠節を尽くし、何かあれば吉川元春を頼ることを言い遺したが、南条元続、小鴨元清、南条元秋らは杉原盛重への怨恨から後に織田方へと与することとなった。
この頃は南条方に与し、伯耆国松崎城の城番とする。
陰徳太平記では「南條没落之事」に同様の記述がみられるが1582年10月19日(天正10年9月23日)の出来事としている。
陰徳太平記 巻第五十四 元春隆景上月城被囲 付 秀吉後詰之事
元春、元長、上月城出張被可返答有りしかば、輝元、隆景合図を定め芸州吉田並に沼田城を打ち立んと吉日を選ばせ天正六年三月十二日と約せらる。(略)元春に追従の将士には(略)杉原播磨守盛重、嫡子彌八郎元盛、次男又次郎景盛、(略)南條伯耆守元続、小鴨左衛門進元清、山田出雲守重直、小森和泉守、(略)等、二万三千餘騎。雲州富田の月山の城を同日に打立ち作州高田に着陣し(略)
1578年4月18日(天正6年3月12日)
織田方に与した尼子勝久が立て籠もる播磨国上月城での戦に従軍する。
南条家からは南條元続、小鴨元清、山田重直も参陣しており、吉川元春の所属としている。
伯耆民談記 巻之第十二 河村郡古城之部 松ヶ崎の城の事
当城には南条の与力小森和泉守方高居住せり。天正八年伯耆守籠城によって和泉守も同籠せしが元来山田出雲と入魂なる故、山田逆意を企て高野宮夜討の後は南条を始め諸人何となふ心を置けり。八橋の杉原彌三郎元盛是を聞て密かに小森方へ使者を遣わし味方に引入れんと勧めたりけるに和泉やがて同意しけるが返り忠の手始めに東郷小鹿谷上山を固め進ノ下総が陣處に夜討の事を彌三郎に内通す。和泉が属兵の中に下総と入魂の者ありて此者件の密計を下総に告げし故、頓て是旨本城へ注進せり。南条驚き家老の輩を呼び集め内談一決して下総が陣処へ加勢を遣わし大砲を合図に定め待ちたりける處に和泉は謀計の洩れたるをば夢にも知らず杉原より加勢を乞い、同年九月廿日の夜、二百余人忍び寄り伺いけるに陣中物静かにて沈睡の体に見えたり。和泉思いけるは此處を行過ぎて長山の陣、海老名源助、小森弾正、一條宅間等が小屋に放火し附入りて本城に切入りなば一挙して大功を立つべしと俄かに分別を変え、其旨を部下の輩と談合すれども士卒更に同心せず。兎角する處に下総が陣中より大筒を打出し、軍兵潮の涌くが如くに切り出でければ寄手仰天して色めく處を合図はよしと長山陣より海老名等の軍兵真下りに突てかかる。野花坂を固めたる相賀柵之助が人数も加わり其外谷々所々の諸卒一時に起り立ち八方より揉合せければ寄手散々に打負け百余人討死したりける。残る者どもあけに染って別所谷の方へ敗軍す。和泉は士卒を励ましけれど、もり返すべき様はなく諸共に別處谷の方へ落行きたるが別所谷は知行所なれば名主某が宅に駈入りしを下総追詰て討取りたり。さて首は下総より本城へ送り実検に備えしと云う。此時別所村の百姓共和泉が死骸を乞い、厚く葬りたるが村端の森の中に今猶塚有り。さて此役に下総が功を抜群なりとて南条大に感賞し松ヶ崎の城を与え東郷の守護とせり。天正の末、東郷山公事ありし時に守護進ノ下総免之と書ける裁訴状あり。今に至て之れを伝うものあり。慶長五年、関ヶ原の役に南条家滅亡に依て当城も羽衣石と等しく破滅せられ今唯名のみ残れり。
1579年5月27日(天正7年5月2日)
山田重直による伯耆国高野宮城襲撃の際、南条元続と共に伯耆国羽衣石城に籠城とする。
山田重直とは懇意の仲であったことから南条元続及び南条家の家臣達からは動向を注視されていたとする。
1580年10月20日(天正8年9月20日)
毛利方の杉原元盛に内通し南条方を離反する。
毛利方への寝返りが偽りでない事を証明するため、小鹿谷の上山に布陣していた進免之への攻撃を画策する。
杉原元盛への援軍要請も取り付け、同日夜半に進免之の陣所へ闇討ちを仕掛けたが夜討の計画は進免之へと漏れていた上、当初の作戦行動から逸脱した方針を示したため将兵の理解を得られず、部隊が混乱した所を南条方の逆襲に遭い100名余りの戦死者を出す。
敗残兵をまとめ別所谷方面へと落延びたが、進免之の追撃を受け討ち取られたとする。
首級は首実検のため羽衣石城へと送られ、遺骸は別所村の百姓によって弔われたとする。
陰徳太平記 巻第六十六 高松ノ城水攻 付 吉川小早川後詰之事
1582年5月29日(天正10年5月8日)
伯耆民談記では1580年10月20日(天正8年9月20日)に討死としているが、陰徳太平記には該当の記述が見えず、毛利方の武将として備中国高松城での合戦に参加している。
陰徳太平記 巻第六十八 南條没落之事
(略)元続が家人、進藤勘介、秋里目已下十三人、一味同心して重直へ密に云通しけるは時節を計い羽衣石の城に火をかけ巾可候。其時追手より切入給え。然ば各十三人志を合せて裏切すべく候と約束を堅くしたりけるに折しも同九月廿三日、因州境にさる神社の祭祀有て羽衣石城下の諸士共数多打連て神幸拜んと行けるか。(略)山田重直、同信直三百許にて大手口より乗入ければ(略)切岸より逃出て播州さして上りけり。小森和泉守は居城少し程遠かりける故、山田には半時遅かりけれど搦手より乗入れけり。山田が者共逃る敵を頻りに追懸。王賀、津村等を初として八十九人討取けり。信長より元続に賜りたる天下月毛鬼鹿毛など云名馬を重直が手へ奪取。輝元元長へ進上し、又、尼子より賜りたつ残雪と云石をも拾取て元春へ献進す。小森も敵数人切伏。是も元続へ信長より與られたる栗毛馬を奪取て元春へ献上す。(略)
1582年10月19日(天正10年9月23日)
南条元続の家人であった進藤勘介が山田重直と内通し、羽衣石城への襲撃を画策する。
同日、因幡国との国境付近の神社で催された祭祀へ参加のため南条方の諸将が外出し城内が手薄になった隙を突き、進藤勘介、秋里目以下十三名らの蜂起に乗じる形で山田重直、山田信直父子が手勢300騎を率いて羽衣石城下を襲撃する。
自身は半時(1時間程)ほど遅れて到着とあることから、この頃には松崎城に在番と考えられる。
城下に到着すると南条方の数名を斬り伏せ、織田信長から南条元続へと贈られたとする栗毛の名馬を奪い山田重直らと共に羽衣石城を制圧している。
陰徳太平記 巻第六十九 杉ノ原景盛、兄元盛を討 付 景盛泯滅之事
同七月二十八日(略)さて、南條が圧えの為小土産山に一城を築候。(略)小森和泉守(略)諸勢、小土産山へ着陣せしかば(略)八月三日、寄手八千餘騎。佐田の城を取巻けり。
1582年8月16日(天正10年7月28日)
伯耆国小土産山城の普請に参加した国人のひとりとする。
1582年8月20日(天正10年8月3日)
織田方へ寝返ったとし、杉原景盛が立て籠もる伯耆国佐陀城を包囲する。
陰徳太平記では佐陀城の所在を因伯の国境付近としている。