所 属

南条

よみがな

人物名

しんのしもうさのかみ もとゆき

進下総守免之

 

官 途

下総守(伯耆民談記)

出身地

不詳

生 年

不詳

没 年

不詳

朝臣

免之

列 伝

東伯耆に基盤を有した在地国人衆、進氏の一族。

応仁の乱での功績により進美濃守南条氏が伯耆国守護代に任じらたことを縁とする一族とも。

 

伯耆志 箕村の条 進氏 私称之姓の項

同(天正八)年九月、進下総、同帯刀(帯刀は八幡村相見氏が系図に見えたり)、南条氏に属し河村郡小鹿谷山に陣して吉川勢と戦う。(民談記に據る)

 

1580年(天正8年9月)

進帯刀と共に小鹿谷の上山(伯耆国上山砦への在陣を伝える。

 

伯耆民談記 巻之第十二 河村郡古城之部 松ヶ崎の城の事

当城には南条の与力小森和泉守方高居住せり。天正八年、伯耆守籠城によって和泉守も同籠せしが元来山田出雲と入魂なる故、山田逆意を企て高野宮夜討の後は南条を始め諸人何となふ心を置けり。八橋杉原彌三郎元盛是を聞て密かに小森方へ使者を遣わし味方に引入れんと勧めたりけるに和泉やがて同意しけるが返り忠の手始めに東郷小鹿谷上山を固め進ノ下総が陣處に夜討の事を彌三郎に内通す。和泉が属兵の中に下総と入魂の者ありて此者件の密計を下総に告げし故、頓て是旨本城へ注進せり。南条驚き家老の輩を呼び集め内談一決して下総が陣処へ加勢を遣わし大砲を合図に定め待ちたりける處に和泉は謀計の洩れたるをば夢にも知らず杉原より加勢を乞い、同年九月廿日の夜、二百余人忍び寄り伺いけるに陣中物静かにて沈睡の体に見えたり。和泉思いけるは此處を行過ぎて長山の陣、海老名源助、小森弾正、一條宅間等が小屋に放火し、附入りて本城に切入りなば一挙して大功を立つべしと俄かに分別を変え、其旨を部下の輩と談合すれども士卒更に同心せず。兎角する處に下総が陣中より大筒を打出し、軍兵潮の涌くが如くに切り出でければ寄手仰天して色めく處を合図はよしと長山陣より海老名等の軍兵真下りに突てかかる。野花坂を固めたる相賀柵之助が人数も加わり其外谷々所々の諸卒一時に起り立ち八方より揉合せければ寄手散々に打負け百余人討死したりける。残る者どもあけに染って別所谷の方へ敗軍す。和泉は士卒を励ましけれど、もり返すべき様はなく諸共に別處谷の方へ落行きたるが別所谷は知行所なれば名主某が宅に駈入りしを下総追詰て討取りたり。さて首は下総より本城へ送り実検に備えしと云う。此時別所村の百姓共和泉が死骸を乞い、厚く葬りたるが村端の森の中に今猶塚有り。さて此役に下総が功を抜群なりとて南条大に感賞し松ヶ崎の城を与え東郷の守護とせり。天正の末、東郷山公事ありし時に守護進ノ下総免之と書ける裁訴状あり。今に至て之れを伝うものあり。慶長五年、関ヶ原の役に南条家滅亡に依て当城も羽衣石と等しく破滅せられ今唯名のみ残れり。

 

1580年10月20日(天正8年9月20日)

南条方の城番であった小森方高が毛利方の杉原元盛に内通し南条方を離反する。

小鹿谷の上山(伯耆国上山砦に在陣していたところ、小森方高の夜襲についての密告があり迎撃態勢を整える。

杉原元盛への援軍要請も取り付けた小森方高は同日夜半、小鹿谷の上山(伯耆国上山砦の陣所へ闇討ちを仕掛けたが、事前に計画を察知していたことから被害を出さずに済む。

小森方高は敵方の反撃がないと読み違えたことで更に進軍し、戦功を挙げようと作戦の変更を下知するが、部下の反対などから部隊の統率が綻んだ隙に逆襲へ転じ100名余りを討ち取っている。

別所谷方面へと落延びた小森方高を討ち取った功績から、南条元続より伯耆国松崎城と併せ、小森方高の知行所が与えられている。

 

伯耆民談記では天正年間末頃の裁訴状に署名があるとし、南条家が改易されるまで松崎城の城主を務めたとされるが、陰徳太平記では1581年(天正9年)の吉川元春馬ノ山砦羽柴秀吉御冠山陣が対峙(馬ノ山の対陣)した際は毛利方の小森久綱松崎城に在番とする。

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