所 属

織田

尼子

よみがな

人物名

あさの えっちゅうのかみ さねみつ

浅野越中守實光

官 途

越中守(伯陽闘戦記、伯耆合戦記、天満鎌倉山合戦記など)

出身地

不詳

生 年

不詳

没 年

不詳

不詳

不詳

實光

列 伝

伯耆国峰松山城手間要害の城主。

伯陽闘戦記、伯耆陰徳合戦記、天満鎌倉山合戦記など創作の物語にのみ登場する架空の人物とされる。

 

伯耆志 岡成村の条 城跡の項

彼記に曰く岡成山は天文永禄の頃、出雲富田城主尼子氏に附属せし。当郡天萬峰松山城浅野越中守實光の臣、尾高和泉守重朝が居城なり。織田信長公、松永弾正を亡し給ひし時、浅野氏は戸田安房守森重と共に信長公に属して戦功あり。其後、浅野は伯耆天万の城主となり(所領四万石余)、戸田は同国鎌倉山の城主となる(所領三万石余)(注釈略)永禄元年三月三日上己の賀儀として浅野の臣石田源左衛門、戸田氏に来りけれは戸田の臣、加祥新左衛門是を延て安房守に謁せしむ。(略)浅野一家彌憤怒し云々。四千四百余騎を出し鎌倉山にぞ討寄ける。戸田方には笹畑五郎、能竹隼人、北方鹿之介等云々城外に防戦ふ云々。此軍戸田方大に利を失ひ浅野方は勝鬨挙けて帰りけり。即夜、戸田方天満城に夜討せむと壱萬四千余騎云々。早田飛騨守及び笹畑等搦手に回り火を掛けれは追手の寄手関を作て攻上る云々。城将越中守岡成城へと志し越城野原を走りけるが早田追付て声を掛け云々。笹畑、鴨部、能竹等続て追来り戦ふ所に浅野方石田帯刀、兼久又兵衛、山根、星川等駈来り云々。戸田方の小田五郎常清と云ふ者、越中守を遥かに見て馬より射落とし遂に首をそ取たりける。石田は主人の首を取返し林の中に埋め置て落行けり。今鶴田の御墓と云ふは是なり。

 

1558年3月22日(永禄元年3月3日)

伯耆国鎌倉山城にて催された賀儀での事故が原因となり、家臣の石田源左衛門戸田森清の家臣、馬場重左衛門によって殺害される。

 

石田源左衛門の家僕より報せを受け、戸田森重父子が謝罪に訪れ詫びるようであれば手打ちとする意向であったが、戸田方は戦を以ての決着を望んだため浅野方は4,400騎を率いて鎌倉山城へと出陣する。

鎌倉山城での合戦では城外に布陣した戸田方に勝利し、勝鬨を挙げ峰松山城へと帰陣している。

同日の晩、伯耆国手間城が戸田方14,000騎による夜襲を受け、応戦するも敗走し、伯耆国岡成城を目指し落ち延びる道中、越城野原で追手の小田五郎常清に射殺される。

 

首級は敵方へ渡ることを防ぐため、石田帯刀によって林の中に埋められている。

Page Top