所 属

尼子

浅野

よみがな

人物名

おだか いずみのかみ しげとも

尾高和泉守重朝

官 途

和泉守(伯陽闘戦記、伯耆合戦記、天満鎌倉山合戦記など)

出身地

不詳

生 年

不詳

没 年

不詳

不詳

不詳

重朝

列 伝

浅野家の第一家老で伯耆国岡成城の城主とする。

伯陽闘戦記、伯耆合戦記、天満鎌倉山合戦記など創作の物語にのみ登場する架空の人物とされる。

 

伯耆志 岡成村の条 城跡の項

伯耆合戦記、伯耆闘戦記の趣を以て見れは右高丸山より村落迄古の城内と云ふ可し。彼記に曰く岡成山は天文永禄の頃、出雲富田城主尼子氏に附属せし。当郡天萬峰松山城浅野越中守實光の臣、尾高和泉守重朝が居城なり。(略)浅野の君臣大に怒り、星川玄蕃、石田帯刀、山根蔵人、坂中丹波等、第一の家老岡成城尾高和泉守を招き僉儀しけるに所詮、安房守父子来て罪を謝せば免すべし。然らされば討手を遣うへしと評決して寺内彌三郎を使者にて戸田氏に出入けり。戸田氏子細承諾せり。如何にも太刀先を以て是非を極む可しと答へけれは浅野一家彌憤怒し云々。四千四百余騎を出し鎌倉山にそ討寄ける。(略)戸田安房守一萬六千余岡成城に押寄せて云々。石田、寺内、兼久等一度に切て出云々。安房守は和泉守か郎党赤松次郎大夫に討る。子息栄次郎森清は当春鎌倉山にて殺されし石田源左衛門か一子、源三郎馬より突落とし親の敵覚えたるかと呼びて首を取る云々。鎌倉方一朝に亡ひしか尾高和泉守天萬鎌倉山共に押領そて勢大に振ひけり。然るに尼子氏の使者来て立退く可き由沙汰の趣申けれは和泉守将卒、稍々落失けれは為ん方無く。上方に走り後は織田氏に仕へけり、其他のものは多く毛利氏に仕へしとかや云々。泉原村は和泉守の居城に隣れる地なるか故の名なり。泉谷も同義なり。尾高支村石田も石田帯刀戦死の地なれは然呼ふ。又、赤松村に赤松次郎大夫か墟あり。又、尾高村も当時迄は高市村と云ひしを和泉守の姓を取て今の名に改む云々。以上原文の大略なり、上件を熟思たるに疑無き偽書なり。(略)是八、民諺記又陰徳太平記に尾高城を泉山とも記して(注記略)何れをも唱へしものなり。泉原泉谷なとを思ふに此地の惣名なり、二書の趣にては岡成村の山を和泉守の城として泉原は城主の名を取ると記す。

 

1558年3月22日(永禄元年3月3日)

伯耆国鎌倉山城にて催された賀儀での事故が原因となり、家臣の石田源左衛門戸田森清の家臣、馬場重左衛門によって殺害される。

 

石田源左衛門の家僕より報せを受け、戸田森重父子が謝罪に訪れ詫びるようであれば手打ちとする意向であったが、戸田方は戦を以ての決着を望んだため浅野方は4,400騎を率いて鎌倉山城へと出陣する。

伯耆国手間城の合戦で主君、浅野實光を失った浅野家旧臣は岡成城へと集まり戸田森重を討つべく軍議を持ったが、戸田方は更に岡成城をも落とす勢いであったことから防戦に徹する方針とし、井上四郎左衛門は三日三晩で岡成堤を完成させている。

 

1558年(永禄元年5月)

岡成池が大海のように湖水を湛えた頃、戸田森重が16,000騎を率いて岡成城へ襲来する。

伯耆志では郎党の赤松次郎大夫戸田森重を、石田源左衛門の一子、石田源三郎戸田森清を討ったことで浅野家の復讐劇は果たされている。

伯耆闘戦記などでは岡成堤を切り水計を以て戸田方の軍勢を壊滅させている。

 

合戦後は主君の旧領であった伯耆国手間城戸田森重の旧領であった鎌倉山城を領有するが尼子氏に立ち退きを迫られ、家臣団も織田家や毛利家へと仕官し離散することとなった。

浅野家、戸田家の両家は滅亡し、自身も没落し物語は終幕となる。

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