武将列伝帖

あらお たじまのかみ なりひろ

荒尾但馬守成裕

【氏】高階【姓】朝臣【名】荒尾【通称】但馬【諱】成裕

幼 名

駒之助(こまのすけ)

荒尾清心斎(あらお せいしんさい)

荒尾清(あらお せい)

雅 号

梅基(うめもと)

出 身

不明

官 途

但馬守(従五位下)、従四位(追贈)

所 属

池田氏

生 年

1815年1月4日(文化11年11月24日)

没 年

1878年(明治11年)11月9日

 

- 列 伝 -

伯耆国米子城の預かりで米子荒尾氏10代目。

荒尾成孝の子であったが嫡男のなかった伯父、荒尾成緒の養子となる。

 

1851年(嘉永4年)9月、荒尾成緒の隠居によって知行1万5,000石、鉄砲50丁など荒尾家代々の家督を相続し米子城の城代となる。

同年11月には家老職となる。

 

1852年(嘉永5年)~1853年(嘉永6年)、米子町内の豪商であった鹿島両家に資金を出資させ、米子城の四重櫓(小天守)と石垣の大規模な修復を行わせている。

 

1854年(嘉永7年)、鳥取藩に本牧警備を割り当て鹿島両家に軍用金10000両の調達を命じている。

同年、米子城へ入城、藩主の補佐を行ったとする。

 

1855年(安政2年)、在方改正御用懸として民政改革を監督し、米子為替座を創設する。

 

1859年(安政6年)、在方商人を制限。

 

1863年(文久3年)、鳥取藩台場 境台場が完成すると海岸防備監督のため荒尾成富と共に米子城へ入城する。

 

1864年(元治元年)2月、病に伏していた鳥取藩主、池田慶徳の代理で上京し家来書上に334名を記す。

同年および1866年(慶応2年)の2度、長州征伐軍に参加している。

長州征伐に際しては1865年(慶応元年)、小銃などの稽古監督のため米子城入りとある。

 

1866年(慶応2年)、家老職を辞任。因幡二十士脱出事件における管理を問われ一時謹慎となった。

家老職を辞した後は「清心斎」、または「清」の号を称した。

明治以降も子の荒尾成富と共に国事に参与し、山陰道鎮撫使の応接や版籍奉還などに関わっている。

 

1878年(明治11年)11月9日、死去。65歳。

 

1907年(明治40年)5月、従四位を追贈されている。

明治維新への功績により曾孫の荒尾之茂が1906年(明治39年)に男爵を叙され華族となったことによる。

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