武将列伝帖
あらお おうみのかみ なりとみ
荒尾近江守成富
【氏】高階【姓】朝臣【名】荒尾【通称】近江守【諱】成富
別 名
荒尾広美(あらお ひろみ)
通 称
荒尾工之助(あらお こうのすけ)
幼 名
斐之助(あやのすけ)
駒之助(こまのすけ)
出 身
不明
官 途
近江守
所 属
池田氏
生 年
1842年(天保13年)
没 年
1893年(明治26年)
- 列 伝 -
荒尾成裕の子。明治維新後は「工之助」または「広美」と名乗った。
米子荒尾氏11代目で最後の米子城預かり。
1864年(元治元年)には家老職とあり、翌年の1865年(慶応元年)に家老職を辞任。
1867年(慶応3年)、家督を相続すると最後の米子城代となった。
1868年(明治元年)正月、再び家老職となり明治維新後も父の荒尾成裕と共に国事に参与。
山陰道鎮撫使との折衝では米子・松江へ随行。
同年4月、答礼使として京都へ赴いた。
1869年(明治2年)2月、自分手政治の廃止を通告。
同年4月、鵜殿藤一郎らが米子へ入ると、米子城の明け渡し事務など監察を行った。
同年5月、朝廷から米子城の返上命令が下り、同年8月に藩庁へと米子城を引き渡した。
版籍奉還に伴い同年3月から6月にかけて藩主、池田慶徳に従い東京へ上京している。
同年10月、禄制改革を実施。家禄現米636石となり、家臣を扶養できず兵制司へと引き渡している。
同じく同月、家臣の林大次郎らの死亡届の取り扱いについて虚偽があったとされ、父の荒尾成裕と共に蟄居(ちっきょ…武士または公家に対して科せられた刑罰のひとつで自宅謹慎の一種)を命じられた。
その後は長らく家臣、島田建久の屋敷へと身を寄せたとある。
1893年(明治26年)に死去。51歳。