所 属

池田

荒尾

よみがな

人物名

あらお おうみのかみ なりつぐ

荒尾近江守成緒

 

幼 名

あらお こまのすけ

荒尾駒之助

 

 

通 称

あらお いせ

荒尾伊勢

 

 

通 称

あらお たじま

荒尾但馬

 

 

通 称

あらお たくみ

荒尾内匠

 

 

通 称

あらお たくみのすけ

荒尾内匠介

 

官 途

近江守、但馬守、伊勢守、内匠介

出身地

不詳

生 年

1795年(寛政7年)

没 年

1862年11月24日(文久2年10月3日)

高階

朝臣

成緒

列 伝

池田家の家老、荒尾成尚の嫡男。米子荒尾氏9代目として伯耆国米子城を預かった。

 

1818年(文政元年8月)

荒尾成尚の隠居によって家督を継承し米子城の城代となる。

 

1819年(文政2年8月)

米子城へと入城し、一ヶ月ほど米子に滞在とある。

米子入りでは豪華壮麗を極めた行列を披露し、その評判が鳥取城下にまで伝わったとしている。

行列が所持した弓は国主、城主にのみ許された「白藤巻の御弓」であったことも人々を驚かせ、鳥取藩着座十家の筆頭とする荒尾家の権勢を示す振る舞いでもあった。

同年、米子銀札場を巡る不正が発覚し、担当であった織田市右衛門が責任を取る形で切腹とされる。

事件には諸説あり、織田市右衛門の汚職とする説の他、焦げ付いた二千両の処理のため、巡視に来た鳥取藩の役人が偽小判を巡る事件を捏造することで織田市右衛門へ全ての罪を着せ殺害したことも推測される。

事件の真相は不明で証明もされていないが、鳥取藩並びに荒尾家代々の台所事情は相当に悪く、同年8月に行われた壮大な米子入りを執り行うには莫大な財源が必要であり、その金策のために利用された汚職が米子銀札場事件の真相とも囁かれている。

 

1825年(文政8年)

江戸幕府による異国船無二念打払令(異国船打払令)が発令すると管内海岸の防備強化を着手し、境村や米子川口番所などに見張り小屋を設置、荒尾家独自で米子城出山砦)に2基の砲壇を配置したことが江戸末期の絵図に図示される。(米子御城平面図)

 

1826年~1842年(文政9年10月~天保13年)

家老職を務める。

 

1827年(文政10年4月)

内匠(内匠介)と改名。

 

1833年(天保4年)

米子鉄問屋への不信から日野郡の鉄山師一同から上道村に鉄問屋を置くよう嘆願書が鳥取藩に出されている。

鳥取藩は許可する方針であったとされるが、米子町の衰退に繋がるとして反対している。

 

1835年(天保6年)

米子に鉄会所、境に鉄会所と鉄問所(後の境鉄山融通会所)が新設される。

境鉄山融通会所は日野郡の鉄山師から支持され伯耆国内各地の豪農などから支援を受け発展した一方、米子鉄会所は不振を極めている。

 

1838年(天保9年)

幕府の巡見使、諏訪縫殿助らが米子に訪れた際、病の床に伏していたため家臣の牛尾九郎右衛門らに応接を命じる。

 

1843年(天保14年)

各村地続帳を作成する。

 

1848年(嘉永元年6月)

鳥取藩主の池田慶行が早世。

 

1848年(嘉永元年6月7月)

江戸へ出府し加賀藩邸より養子として池田慶栄を迎えている。

 

1847年~1849年(弘化4年~嘉永2年)

2度目の家老職を務める。

 

1850年(嘉永3年12月)

鳥取藩主となった池田慶徳の元服では共に江戸城へ登城し徳川家慶の面前で拝謁を賜った。

 

1851年(嘉永4年9月)

家督を養子の荒尾成裕(弟、荒尾成孝の子)に譲り隠居する。

 

1862年11月24日(文久2年10月3日)

死去。67歳。

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