所 属
池田
荒尾
よみがな
人物名
あらお おうみのかみ なりひさ
荒尾近江守成尚
幼 名
あらお こまのすけ
荒尾駒之助
別 名
あらお なりたか
荒尾成高
通 称
あらお しゅり
荒尾修理
通 称
あらお たくみのすけ
荒尾内匠介
通 称
あらお おうみ
荒尾近江
官 途
近江守、修理亮、内匠介
出身地
不詳
生 年
1766年(明和3年)
没 年
1823年2月12日(文政6年1月2日)
氏
高階
姓
朝臣
諱
成尚
列 伝
池田家の家老、荒尾成熙の嫡男。
伯耆国米子城預かりで米子荒尾氏8代目。伯耆において綿、木綿、鉄、蝋などの生産を活発化させた。
1787年(天明7年9月)
父、荒尾成熙の死去によって家督を相続し米子城代となった。
1789年(寛政元年3月)
幕府巡見使(石尾七郎兵衛、花房佐五郎、小浜平太夫)が米子を通過する際、米子城の二の丸にて応接とある。
1794年(寛政6年2月)
岡山藩家老、池田政喬の娘と結婚する。
1794年~1816年(寛政6年12月~文化13年)
御職家老(執政家老)となる。
1795年(寛政7年7月)
1796年(寛政8年)
御根取となる。
1800年(寛政12年2月)
鳥取藩主の池田斉邦が徳川家斉の面前で元服した際には共に登城し拝謁を賜った。
1806年(文化3年)
伊能忠敬測量隊による第1次測量では調査に対して非協力的な姿勢を見せ、米子城周辺の測量に関して米子の役人が妨害したとしている。
1807年(文化4年8月)
池田斉邦が死去すると江戸へ出府する。
1807年(文化4年10月)
池田斉邦を継いで鳥取藩主となった池田斉稷が徳川家斉の面前で元服した際も共に登城し拝謁を賜った。
1813年(文化10年)
伊能忠敬測量隊による第2次測量では各地で測量隊の評判が高まっていたことから、第1次測量時とは対照的に此度の調査には藩を上げて歓迎し測量にも協力している。
池田家の役人も伊能忠敬測量隊へ最大の賛辞を送っている。
1818年(文政元年8月)
家督を嫡男の荒尾成緒に譲ると隠居。
1823年2月12日(文政6年1月2日)
死去。57歳。
風貌に関しては肥満体質であり、文化年間頃から痛風を患っていたとされる。