よみがな
人物名
あべ しろうごろう まさゆき
阿部四郎五郎正之
出身
三河国
生年
1584年(天正12年)
没年
1651年5月1日(慶安4年3月12日)
氏
不詳
姓
不詳
名
阿部
通称
四郎五郎
諱
正之
官途
右衛門尉
別名
阿部四郎右衛門(あべ しろうえもん)
所属
徳川
列 伝
江戸幕府の旗本。阿部忠政の三男。
徳川秀忠、徳川家光に仕え、書院番から使番、目付へと出世し大坂の役にも従軍。
1615年(元和元年)2月、朝比奈正重とともに監使として肥後国熊本藩へ赴き、藩の重臣であった加藤美作の豊臣方への内通を未然に防いでいる。
1616年(元和2年)、松平忠輝の改易に際しては監使として越後国高田に赴く。
1617年(元和3年)7月25日、江戸幕府からの命により監使として伯耆国へ赴き、伯耆国米子城の城主、加藤貞泰が伊予国大洲へ転封となると米子城を受け取り在番とされる。(西伯郡自治史)
この頃、浪人であった村川市兵衛と親交があったと伝える。
村川市兵衛、大谷甚吉の両名から当時の竹島(鬱陵島)への渡航を相談されており、幕府へ周旋し竹島への渡航許可を得たとある。(米子市史)
※現在、竹島と呼ばれる島は当時の地図には「松島」と記述が見える。
「竹島」は島で竹が取れた事から名付けられたと云われるが、「松島」で松が取れたという伝えは残されておらず名前の由来は不明。
1619年(元和5年)、大久保忠成とともに肥後国椎葉山の騒動を鎮圧。
1623年(元和9年)、松平忠直改易後の越前国の国務の任を受ける。
1618年(元和4年)、江戸の道路を巡見し水道を管掌。
1620年~1622年(元和6年~元和8年)、江戸城の石垣普請奉行を務め神田川の治水事業において柳原の堤を築く工事を担当。
1625年(寛永2年)、江戸において旗本以下諸士の屋敷割りを実施。内政面での功績が多く見られる。
1649年~1650年(慶安2年~慶安3年)、地震で損壊した日光東照宮の石垣修復に当たる。
1651年(慶安4年)、死去。68歳。