よみがな
人物名
あらお たじまのかみ なりとも
荒尾但馬守成倫
出身
不詳
生年
1684年7月3日(貞享元年5月21日)
没年
1734年8月13日(享保19年7月15日)
氏
高階
姓
朝臣
名
荒尾
通称
但馬
諱
成倫
官途
但馬守、近江守、大和守、伊勢守
幼名
平左衛門(へいざえもん)
別名
荒尾成朝(あらお なりとも)
荒尾但馬(あらお たじま)
荒尾大和(あらお やまと)
荒尾伊勢(あらお いせ)
荒尾近江(あらお おうみ)
所属
池田
荒尾
列 伝
池田家の家老、荒尾成重の嫡男。
伯耆国米子城預かりで米子荒尾氏4代目。家老として3代目鳥取藩主、池田吉泰に仕えた。
1692年(元禄5年)6月4日、父、荒尾成重が死去。
同年同月7日、家督の相続が認められ9歳の若さで米子城の城代となった。
同年同月27日、登城して藩主の池田綱清に拝謁し、家督相続の御礼言上。
叔父の荒尾成紹、池田知定、鵜殿長春、大叔父である荒尾利純も共に登城し御礼言上している。
1702年(元禄15年)までは米子分家の叔父、荒尾成紹が後見を命じられている。
1693年(元禄6年)、竹島(現在の鬱稜島)周辺で不法に漁業を行っていた朝鮮人2人を大谷家の船が鳥取まで連行すると、鳥取藩家老の和田三信、津田元長、池田之信と共に引見している。
取調べは2ヶ月間に渡り、江戸に報告し指示を仰いだとされる。
1696年(元禄9年)、幕命により大谷家、村川家の竹島(鬱稜島)への渡海は禁じられた。
現在の竹島(竹嶋)は当時、松島(松嶋)と呼ばれていた。
1700年(元禄13年)7月、池田吉泰の家督相続の御礼言上に際しては江戸城へ登城、征夷大将軍の徳川綱吉に拝謁している。
同年、因伯に請免制を敷いている。
1727年(享保12年)、大崎村まで農業用水の米川を完成させており、博労町には菩提寺となる了春寺や本源寺を建立している。
1696年(元禄9年)、1702年(元禄15年)、1717年(享保2年)、1721年(享保6年)には大洪水、1717年(享保2年)、1722年(享保7年)、1732年(享保17年)には農民の騒動事件が起こり、藩の財政は窮乏し家中禄高は年貢率免二ツになったとある。(免二ツ⇒5割)
病弱でもあったようで、1698年(元禄11年)8月、1701年(元禄14年)6月、1702年(元禄15年)2月には病気療養のため、叔父の荒尾成紹に伴われ上京している。
1702年(元禄15年)10月には体調が回復し、成人していることから荒尾成紹の後見は免じられている。
1703年(元禄16年)10月、荒尾家家中で大事の企てが発覚したとして家老の白井七左衛門親子らを追放。
1706年(宝永3年)2月、藤堂宮内の娘と結婚している。
1720年(享保5年)、鳥取城下で大火(石黒火事)が発生し屋敷を焼失。
1724年(享保9年)4月8日、鳥取城下の大火(黒川火事)では藩主池田吉泰直々の指揮の下、先頭に立って消火活動を指揮した
。当時の狂歌に「無骨なは但馬者とて笑えとも 火を消す事は荒尾なりけり」と詠まれている。
1734年(享保19年)7月15日に死去。51歳。
家督は嫡男の荒尾成昭へと相続された。