伯耆国 河村郡
とっとりはんだいば はしづだいば
鳥取藩台場 橋津台場
所在地
鳥取県東伯郡湯梨浜町はわい長瀬
城 名
鳥取藩台場 橋津台場(とっとりはんだいば はしづだいば)
別 名
橋津御台場(はしづのおだいば)
築城主
武信潤太郎、椿岩助
築城年
1863年(文久3年)
廃城年
不詳
形 態
砲台場
武 装
六尾反射炉製 砲台4門(鉄造18斤砲、鉄造6斤砲、鉄造3斤砲、鉄造5寸径砲 各1門)※非現存
遺 構
郭跡、土塁(目隠土塁、外壁残存部)、虎口、櫓台(高見台跡)
現 状
公園(橋津お台場公園)、保安林(防風)、砂浜、日本海
備 考
国指定史跡(昭和63年7月27日指定)
縄張図
鳥取藩台場 橋津台場略測図(鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)) ※鳥取県教育委員会提供
城 主
池田
戸崎文之右衛門
御台場取締役を命じられる。
椿岩助
田後の大庄屋で台場締役頭取を命じられる。
参考資料(史料及び文献、郷土史など)
鳥取藩史(軍制志 三)
贈従一位池田慶徳公御伝記
在方一手名前記
藩政資料控帳
羽合町地籍図
在方諸事控(明治2年3月27日)
鳥取県伯耆国河村郡長瀬村大字長瀬宿絵図(明治25年)
長瀬宿「百六拾弐番字池端」絵図(明治25年)
羽合町史 前編(昭和42年10月1日 羽合町史編さん委員会)
新修羽合町史(平成6年1月31日 羽合町史編さん委員会)
ふるさと橋津(ふるさと橋津刊行委員会 国田一夫 1975年)
大栄町誌(昭和55年3月 大栄町合併20周年記念出版 大栄町誌編さん委員会)
橋津御台場推測復元略図
年 表
1858年
安政5年
1名の大庄屋と6名の中庄屋による組織分けが行われたとされる。
1863年
文久3年
鳥取藩主、池田慶徳の命により鳥取藩内の各地で台場の建造が始まる。
田後の大庄屋、椿岩助と6名の中庄屋によって当台場は同年の早い段階で完成したとされる。
1864年
元治元年
7月19日、武信潤太郎が砲術教師に任命され、台場締役頭取に田後の大庄屋、椿岩助を始めとした10名の台場締役が任命されたとある。(藩政資料控帳 在方一手名前記)
1892年
明治25年
この頃は官有地とされ、台場も形を明瞭に残していたことが伺える。(長瀬宿「百六拾弐番字池端」絵図(明治25年))
1915年
大正4年
12月2日付けで長瀬村へ払い下げとある。(新修羽合町史)
払い下げの前後は広場の一つとして地元の住民に利用されたことを伝えている。(ふるさと橋津)
概 略
1863年(文久3年)、鳥取藩主であった池田慶徳の命により鳥取藩内に8箇所建造された砲台場のひとつ。
鳥取藩の重要な港の一つ「橋津湊」や「藩倉」を防衛するための施設であったとも伝えている。
鳥取藩史 軍制志 三
当時の設計図として御秘書中に浜坂、由良、赤崎、上道の略図有り。
鳥取藩史には他の鳥取藩台場の設計図についても記述が見える。
設計図の存在が記されるが現在の所在は不明で施設の全体像も不明となっている。
長瀬宿「百六拾弐番字池端」絵図には「旧台場 官有地」として台場の凡その形が描かれており、設計が武信潤太郎によることから伯耆国鳥取藩台場 由良台場と同じような形状であったことが推測されている。
贈従一位池田慶徳公御伝記(文久3年6月13日の条)
御軍式方頭取、岩越次郎兵衛に御両国海岸御備場見分を命じる。
台場建造に当たっては岩越次郎兵衛が監督官として現地の下調べなどに当たっており、1863年(文久3年)6月17日に瀬戸村の郷士、武信潤太郎に至ったとある。
同じく贈従一位池田慶徳公御伝記(文久3年10月11日の条)には武装配備の記述があり、六尾反射炉で製造された18斤砲、6斤砲、3斤砲、5寸径砲の計4門を備えたとされるが、贈従一位池田慶徳公御伝記(慶応3年8月21日の条)には当時の橋津台場に配置される予定だった大砲の数は5挺とされており、建造の途中から変動があったことが伺える。
1863年(文久3年)、田後の大庄屋、椿岩助と6名の中庄屋により建造が開始され、同年の早い段階で完成とされている。
台場の造成には用土として馬ノ山四号墳(前方後円墳)の前方部分が切り崩され、運び出された土を利用して築城されたと伝えている。
立地と形状については橋津川の左岸に位置し、日本海に対して長方形に構えたとある。
火薬倉(蔵)はハナソゲ山の南側に配置され、海からの砲撃に備えたとされる。
1864年(元治元年)7月3日、御台場取締役として河村郡長瀬村の戸崎文之右衛門と椿岩助が任じられている。(御褒賞帳)
同年7月19日、武信潤太郎が砲術教師に任命されている。(藩政資料控帳)
台場の責任者として椿岩助は後に取締役頭取とする肩書になっている。
御褒賞帳(慶應3年8月21日の条)
橋津御台場
椿岩助 締役拾人、御用懸り 拾人、大砲打伝 六拾人、〆 八拾人
御褒賞帳では伯州分御台場請人数として人員配備の詳細が記されている。
1915年(大正4年)12月2日付けで長瀬村へ払い下げられたとある。(新修羽合町史)
現地案内板には日本海の波浪による浸食で施設の3割強が流出してしまったとあるが新修羽合町史に掲載の復元図から考えると流出部分が7割弱、残存部分が2割強程度と考えられる。
砲台を置いたと考えられる砲壇も全て流出しており、東西の土塁の南淵に高見台跡のみが残る。
(羽合町史 前編では高見台跡を砲台跡としているが、新修羽合町史では削除されている)
4基の砲台に対してそれぞれ火薬庫(4基)があったと考えられているが、こちらも既に流失したとして砲台同様に場所の特定は難しいとされる。
長瀬村に払い下げられる以前から台場としての機能は失っていたようで、郭跡などは運動場や公園として地元の住民に利用されたと郷土資料に記述が見える。
「お台場は大正初期まで小学校の運動会や相撲大会、その他の催しに利用されていたもので、当時としては広場の1つであった」(ふるさと橋津)
大砲についての詳細は不明だが撤去の頃には潮風により腐食していたと伝え、鳥取藩台場 由良台場と同じく大阪などの商人にくず鉄の価格で売られたと由良宿に言い伝えが残っている。(大栄町誌)
羽合町史 前編など比較的古い資料では台場を建造した人物を長瀬の構大庄屋、戸崎久右衛門と戸崎米蔵の親子であると記述がされている。
戸崎久右衛門は荒尾志摩の部下として橋津お蔵警備隊260名を率いた隊長であり、後に戸崎米蔵(戸崎富隆と改名)が引き継いでいる。(羽合町史 前編)
新修羽合町史など新しい資料では田後の大庄屋、椿岩助と6名の中庄屋による建造と訂正がされている。(国指定史跡の案内板も同様に訂正されている)
在方一手名前記では元治元年6月に橋津御台場締役として10名が任じられたと記述が見える。
橋津御台場締役頭取 田後大庄屋、椿岩助
御用場相勤候節帯刀、御免 伜竹蔵
中庄屋(村名及び部落名は省略)
涌島恒蔵、尾崎恵助、福井十蔵、福井久之丞、鳥越権平、河原六兵衛、秋田兵蔵、深田与三右衛門
写 真
2014年11月1日