伯耆古城図録

とっとりはんだいば よどえだいば

鳥取藩台場 淀江台場

鳥取県米子市淀江町今津

別 名

今津台場(いまづだいば)…淀江の鼻今津御台場とも記される。

遺 構

高さ約4m、幅約24m、長さ67mの二段式台形土塁

武 装

六尾反射炉製 砲台3門(十八斤砲×1門、六斤砲×1門、五寸径砲×1門)※非現存

後に8門の移動式大砲が増設配備されている。

現 状

御台場公園

城 主

(池田方)池田周防松南宏年

築城年

1862年(文久2年)に築城開始。

1863年(文久3年)11月に完成。

廃城年

不明

形 態

砲台場

備 考

国指定史跡(昭和63年7月27日指定)

参考文献

鳥取藩史(軍制志(三))

贈従一位池田慶徳公御伝記

在方一手名前記

藩政資料控帳

伯耆国汗入郡海岸絵図

在方諸事控(明治2年3月27日)

淀江町誌(昭和60年8月 淀江町)

境港市史 上巻(昭和61年3月 境港市)

羽合町史 前編(昭和42年10月1日 羽合町史編さん委員会)

新修羽合町史(平成6年1月31日 羽合町史編さん委員会)

縄張図

鳥取藩台場 淀江台場概略図

現地案内板より

 

概 略

1863年(文久3年)、池田慶徳の命により建造された砲台場の一つ。

外国船の侵攻に備え、淀江湊や今津港を防衛するために建造された台場と推定されている。

台場の敷地には汗入郡今津村の大庄屋、田中六郎兵衛(後の松波徹翁)の所有する田畑を無償で供出し、松波徹翁の長男、松波宏元が砲壇など城砦の設計を行っている。

 

台場完成後は地元の住民で農兵隊(松波農兵隊)を組織し、防備に当たっている。

現存する土塁は長さ約65m、高さ約5mの直線的な形状となっているが、昔の絵図では両端より更に斜めに続いており、同じく松波宏元が設計した鳥取藩台場 境台場と似た五角形の形状であったことが推測される。

土塁の構造は二段式台形土塁で現在より3倍以上の高さがあったとされ、表面を覆う赤土は西伯郡大山町の晩田山から運ばれたと伝えている。

砲壇には六尾反射炉製の大砲、計3門(「十八斤砲×1門、六斤砲×1門、五寸径砲×1門)が設置され、佐陀川の河口(当台場より約4Km先とする)に据えた標的に向けて射撃訓練を行ったことも記録される。

 

御褒賞帳(慶應3年8月21日の条)

淀江御台場

松波徹翁 右代取締役 七人、御用懸り 七人、大砲打手 四拾六人、〆 六拾人

 

御褒賞帳では伯州分御台場請人数として人員配備の詳細が記されている。

 

1898年(明治31年)以降、両翼(北側・南側)の土塁は養良高等小学校(後の県立西部農業高等学校で旧淀江産業技術高校の前身)の建設に伴う土砂採取などにより平削され消滅している。

 

1970年(昭和45年)、養良高等小学校は県立西部農業高等学校と改称し移転した後、跡地は御台場公園として整備が行われたとある。

 

年 表

1855年

安政2年

松南宏年が鳥取藩の郷士に任ぜられる。

同年、農兵隊(松波農兵隊)が組織されている。

1857年

安政4年

今津から淀江までの沿岸防備の担当として池田周防松南宏年が任ぜられる。

1862年

文久2年

松南宏年が所有する今津の土地(田畑)が砲台場築造の敷地として無償提供され、同年より築城が始まったとする。

1863年

文久3年

松南宏年が提供した土地(今津)にて台場の建設が始まり、松波宏元による西洋式設計を取り入れた城郭が11月に完成とある。

後に美保関近海へ異国船が侵入すると農兵隊が召集され戦闘準備が行なわれている。

1898年

明治31年

養良高等小学校の建設のため土塁の一部が平削される。

1937年

昭和12年

養良高等小学校の増設のため北側の土塁が平削される。

1970年

昭和45年

養良高等小学校が県立西部農業高等学校となり移転した後、跡地は公園(御台場公園)となる。

1988年

昭和63年

国指定史跡に指定。

地 図

 

写 真

訪城日 2013/05/26

南西側からの遠景

西側からの遠景

公園入口

土塁上から日本海

御台場公園

南西側からの登り口

名称碑

土塁

日本海側から土塁

公園内から土塁

公園内から土塁

土塁上

土塁上

土塁上

土塁上

土塁上

階段から土塁

階段から土塁

公園内から土塁

公園内から土塁

土塁上から日本海の眺め

土塁上から日本海の眺め

公園内の東屋

公園内の石碑

土塁下部はコンクリート

改変時の補強用礎石?

現地案内板

現地解説版

少し離れた場所の石碑

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