武将列伝帖

しんのげんしちろう ゆきよし

進源七郎幸義

【氏】【姓】朝臣【名】【通称】源七郎【諱】幸義

別 名

出 身

不明

官 途

不明

所 属

進氏、尼子氏

生 年

不明

没 年

不明

 

- 列 伝 -

伯耆国日野郡の有力国人衆(日野衆)、進氏の一族。

 

萩藩閥閲録 一三〇進三郎兵衛 某感状写

今度籠城内二かか丸表之仕寄、夜中之道之時節及鑓粉骨之段無比類候。、弥々忠儀専用者也。仍感状如件。

天正六 七月六日 幸(判) 進源七郎殿

 

萩藩閥閲録 一三〇進三郎兵衛 某感状(古畑務氏所蔵文書)、とっとりの乱世-因幡・伯耆からみた戦国時代-

今度上月籠城、無二相届抽粉骨事神妙二候。弥々忠儀専用者也。仍感状如件。

天正六 七月六日 幸(花押) 進源七郎殿

第二紙ウワ書 進源七郎殿 幸

 

1578年(天正6年)、尼子再興軍に与して播磨国上月城へと楯籠り、籠城戦での働きに対して「幸」の判を署した人物より二通の感状を給わっている。

一通は進経通へと発給された内容とほぼ同一の感状であり、残りの一通も諱の「幸」が判別できるのみで発給した人物の特定は難しい。

尼子再興軍を構成する軍団には日野衆を中核とした部隊があり、大将の日野五郎が序列の高位に記されるなど再興戦では日野衆が重要な戦力であったことが伺える。

 

萩藩閥閲録では「幸」の花押を署した人物からの感状を山中幸盛からの書状としているが、他の山中幸盛の花押とは明確に異なっていることから、鳥取県内の研究では通字として「幸」の字を使用した日野山名氏進氏など別人の感状とする可能性が高いと考えられている。

とっとりの乱世-因幡・伯耆からみた戦国時代-に収録の翻刻では萩藩閥閲録に収録されていなかった第二紙ウワ書の存在が確認できる。

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