伯耆国 日野郡
たかひらじょう
高平城
所在地
鳥取県西伯郡伯耆町清原
城 名
たかひらじょう
高平城
別所氏の居城とする表記
築城主
不詳(別所氏と推測される)
築城年
不詳
廃城年
不詳
形 態
山城
遺 構
郭跡、土塁、井戸跡※、竪堀、虎口
※「六十落とし」の昔話に係る施設跡か
現 状
山林、墓地
備 考
史跡指定なし
縄張図
高平城略測図(鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編))※鳥取県教育委員会提供
参考資料(史料及び文献、郷土史など)
伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻四 大正5年10月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
日野郡史 前篇(昭和47年4月 日野郡自治協会)
岸本町誌(昭和58年3月 岸本町誌編さん委員会)
年 表
天正年間
播磨国三木城に拠った別所小三郎の居城と伝える。
1580年
天正8年
2月2日(旧暦1月17日)
兵糧攻め(三木の干殺し)により三木城が落城する。
以降、別所氏の一族や家臣など生き残った者達がこの地に落ち延びてきたと伝える。
明治中期
「六十落とし」の昔話では、この頃まで高平山の山頂付近には井戸跡のような穴があり、石蓋で覆いがされていたと伝える。
周囲は老松で鬱蒼とし、往時を偲ばせるとしている。
概 略
高平山の畝に所在した別所小三郎の居城と伝わる。(日野郡史)
伯耆志(原村及び清山村)では村を通る河川と産土神に関わる事項の記述のみで古城跡の存在は不詳。
鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)でも「唯一伝承により城跡と推定している」として、遺構の残存状態も悪く「主郭以外の郭は確認できない」としている。
但し、主郭の東西にはそれぞれ一段ずつ腰郭を配し、西の腰郭の西端には土塁と竪堀、東の腰郭の東端には土塁と切岸、或いは空堀のような痕跡が見える。
1580年 2月2日(天正8年1月17日)
「三木の干殺し」と呼ばれる兵糧攻めにより播磨国三木城は落城し、城主の別所長治は一族とともに自刃とある。
「小三郎」を名乗った人物は複数存在するが、日野郡史では当城の城主と伝える別所小三郎は別所長治と同一人物であるとしている。
別所長治の在城に関して確かな史料は見えないが、三木城に拠った別所氏の支城のひとつで伯耆国尾高城や伯耆国岸本城と同様に別所長治の持城とする認識と推測される。
主郭の所在した高平山の山頂には「六十落とし」「天狗の羽休めの松」という2つの伝説があり、「六十落とし」の民話では姥捨て山、「天狗の羽休めの松」の伝説では神聖な山とすることから全く正反対の性質で描かれている。
「六十落とし」
口減らしのための姥捨て山伝説。
但し、高平の山で姥捨てを目的とした行為は行われなかったようである。
実際は貢租(年貢と労役)の重税を逃れるため、村が口減らしの名目に齢60を越えた老齢者を山奥や座敷牢に匿い租税を逃れようとした事が伝えられた昔話が始まりとされ、後世に昔話は変化している。
(昔話の要約)
ある村の若者(孝行息子とする)が口減らしのため高平山に隔離された老人達へこっそりと飯を運んでいた。
ある日、村で難問が持ち上がり村民が困り果てたとき、高平山の老人達へと相談し知恵を授かると村の困難事は解決し若者は評判を得る。
という昔話となり、現在では悪政を嘆き、孝行の訓えとする内容になっている。
「天狗の羽休めの松」
大昔、高松山の山頂には大松が聳えており、時々天狗が飛んできてはその松を羽休めに使っていた。
高平山を神聖な山とする伝説で濫りに山へ侵入することを禁じる話となっている。
写 真
2014年4月26日