伯耆古城図録

たかひらじょう

高平城

鳥取県西伯郡伯耆町清原

別 名

遺 構

郭跡、土塁、井戸跡、竪堀?、虎口?

現 状

山林、墓地

城 主

(毛利方)別所小三郎

築城年

不明

廃城年

不明

築城主

不明(別所氏が推定される)

形 態

山城

備 考

史跡指定なし

参考文献

岸本町誌(昭和58年3月 岸本町誌編さん委員会)

日野郡史(昭和47年4月 日野郡自治協会)

縄張図

高平城略測図(鳥取県教育委員会提供)

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

 

概 略

高平山の畝に所在した別所小三郎の居城と伝わる。(日野郡史など)

 

別所氏は織田方に与していたが、1578年(天正6年)3月に織田方から離反すると播磨国三木城に拠り抵抗している。

当初は毛利氏からの支援もあったが徐々に遮断され、1580年(天正8年)正月、「三木の干殺し」と呼ばれる兵糧攻めに遭い、城主の別所長治は一族とともに自刃した。

 

「小三郎」を名乗った人物は複数存在するが、日野郡史に記される別所小三郎別所長治としている。

別所長治が当城に居城した確かな記述は見えないが、三木城に拠った別所氏の支城のひとつで伯耆国岸本要害と同様に伯耆国尾高城の支城であったと推測される。

 

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)では「唯一伝承により城跡と推定している」とし、伝説の域を出ない部分もある。遺構の残存状態も悪いと記述にあり「主郭以外の郭は確認できない」とあるが、主郭の東西にはそれぞれ一段ずつ腰郭を配し、西の腰郭の西端には土塁と竪堀、東の腰郭の東端には土塁と切岸、或いは空堀のような痕跡が見える。

 

主郭の所在した高平山の山頂には「六十落とし」「天狗の羽休めの松」という2つの伝説があり、「六十落とし」の民話では”姥捨て山”、「天狗の羽休めの松」の伝説では神聖な山とされ、まったく正反対の性質で描かれている。

 

「六十落とし」

口減らしのための”姥捨て山”伝説。実際に高平の山で姥捨てを目的とした行為は行われなかったようである。

実際は貢租(年貢と労役)の重税を逃れるため、村が口減らしの名目に齢60を越えた老齢者を山奥や座敷牢に匿い租税を逃れようとした事から作られた話とされる。

更に話は変化し、

ある村の若者(孝行息子とも)が口減らしのため高平山に隔離された老人達へこっそりと飯を運んでいた。

村で難問が持ち上がり困り果てたとき、高平山の老人達へと相談し知恵を授かると村の困難事は解決し若者は評判を得た。

という昔話となり、現在では悪政を嘆き、孝行の訓えとして生まれた話になっている。

 

「天狗の羽休めの松」

大昔、高松山の山頂には大松が聳えており、時々天狗が飛んできてはその松を羽休めに使っていた。

高平山を神聖な山とする伝説へと変わり、濫りに山へ侵入することを禁じる話となっている。

 

年 表

天正年間

播磨国三木城に拠った別所小三郎の居城と伝わる。

1580年

天正8年

1月17日、兵糧攻め(三木の干殺し)によって三木城は落城。

以降、別所氏の一族や家臣など生き残った者達がこの地に落ち延びてきたと云われる。

明治中期

「六十落とし」の昔話では、この頃まで高平山の山頂付近には井戸跡のような穴があり、石蓋で覆いがされていたと云われる。周囲は老松で鬱蒼とし、往時を偲ばせるとしている。

地 図

 

写 真

訪城日 2014/04/26

正面タンクの上の山が主郭

目印のタンク

タンク建設の改変有

南東側の墓地

北西側に作業道

索道は西腰郭まで続く

西腰郭の窪み

索道終点から西腰郭へ

西腰郭の北側に竪堀跡

西腰郭の窪み

西腰郭

西腰郭

西腰郭

西腰郭

西腰郭の土塁(北側)

西腰郭の井戸跡らしき窪み

主郭の土塁と虎口(東側)

主郭は方形で一段高い

主郭

主郭

主郭の土塁

主郭の土塁

主郭の巨石

東腰郭の土塁

東腰郭

東腰郭

東腰郭

東腰郭

東腰郭

東腰郭の礎石?

東腰郭の土塁と堀跡

東西腰郭の土塁

東腰郭から南側の様子

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