伯耆国 日野郡
まるやまだいかんしょ
丸山代官所
所在地
鳥取県西伯郡伯耆町丸山(字堂ノ前)
城 名
丸山代官所(まるやまだいかんしょ)
別 名
丸山御役所(まるやまのおやくしょ)…冬季に於ける代替の役場とする呼称。
代官屋敷(だいかんやしき)…代官の居住した屋敷に因む呼称。
里坊屋敷(さとぼうやしき)…鳥取縣日野郡八郷村是などでの表記。
築城主
本坊西楽院
築城年
1660年(万治3年)
廃城年
1877年(明治10年)頃
形 態
居館跡(代官所跡)
遺 構
石碑、郭跡、土塁
現 状
住宅地、畑地、荒地
備 考
史跡指定なし
縄張図
城略測図(鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)) ※鳥取県教育委員会提供
城 主
大山寺
本坊西楽院
冬季の政務を行う代替施設として代官を置いたとある。
参考資料(史料及び文献、郷土史など)
大山諸事覚書
鳥取縣日野郡八郷村是(1913年 大正2年)
岸本町誌(昭和58年3月 岸本町誌編さん委員会)
日野郡史(昭和47年4月 日野郡自治協会)
ふるさと丸山(丸山集落活性化推進委員会著 平成19年3月30日)
年 表
1610年
慶長15年
丸山村が大山寺領に組み込まれる。
1660年
万治3年
丸山村に大山寺の代官所、里坊屋敷が置かれる。
1877年
明治10年
本坊西楽院の取り壊しと併せて代官所も取り壊されたとされる。
概 略
江戸時代、3郡17ヶ村三千石の大山寺領を治めた本坊西楽院は積雪によって大山寺方面への交通が困難となる冬期、避雪地として丸山村に代官所を置き、役僧を派遣し大山寺領の政務を執らせたと伝える。
鳥取縣日野郡八郷村是 代官所の条
維新前、大山寺領ノ役所トシテ大字丸山ニ設ケラレ、事務所並倉庫等相備ハリ、政治ヲ行ヒシモ維新ト共ニ廃セラレ、今ハ其遺跡ヲ字堂ノ前に残スノミ。
大山御役所略図には24.3間、南北に17.3間の堀で囲まれていたと推測されており、米蔵、年貢受取所、牢屋などの建物があったと記録される。
鳥取縣日野郡八郷村是 里坊屋敷の条
大字丸山村ニ在リ。当大山寺ガ四十二院アリシ際、各院約六反歩位ノ屋敷ヲ有シ邸宅ヲ構ヘ、雪中院主ノ来リ住セシモ何時シカ荒廃に皈スルト共ニ松林トナリ僅カニ基石ヲ認ムルニ(略)
役僧の住宅として石碑が建てられている場所から東へ300~400m程の場所に里坊屋敷の所在を伝える。
大山の冬場の厳しい寒さは病気になった場合の療養が困難であったことから療養施設を兼ねていたとも伝えている。
明治維新を迎えると国有地に編入され、1906年(明治39年)12月~1909年(明治42年)3月までに大林區署直轄の苗圃地として4町8反歩余が開墾されたとしている。
1909年(明治42年)10月26日には丸山村学校基本財産として2町3反3畝16歩が払い下げられ、残り15町7反1畝8歩は今尚国有林として名高し(当時)としている。
代官所を囲った堀の外(西側)には大山侍(木村、安田、奥田、遠藤、小谷、羽田)の住居である六軒長屋が付属していたとも伝わる。
代官所は明治初め頃まで運用されたと伝える。
1877年(明治10年)、本坊西楽院が取り壊しになると同じ頃に代官所も取り壊されたとしているが、明治時代(代官所の取り壊し前後)は芝居小屋があったとも伝わる。
芝居小屋の名残か不明ながら、端に土塁のような土盛が見られる郭跡が残る。
写 真
2014年4月5日