伯耆古城図録

ふるいちじょう

古市城

鳥取県西伯郡伯耆町古市 / 鳥取県西伯郡伯耆町父原

別 名

古市の進氏館(ふるいちのしんしのやかた)…溝口町誌での呼称。

海蔵寺館(かいぞうじのやかた)…溝口町誌で別名とする呼称。

遺 構

郭跡、虎口、腰郭(帯郭)、堀切、石垣

伝・館跡とする観音堂跡に石垣を持つ2段、字海蔵寺から続く林道入口の古墓に3段程度の連郭が見られる。

林道入口の古墓の周囲を巡る帯郭状の腰郭が見える。

林道入口の古墓の東側が断ち切られているが往古からの遺構かは不明。

伝・進氏館跡とする観音堂跡が2段の石垣造りとなっている。

現 状

畑地、山林、林道、観音堂跡

城 主

(進方)進氏進幸広進太良右衛門進源太夫進幸経進幸寛進九郎三郎進幸定進祐定

築城年

応永年間(1394年~1428年)

廃城年

1575年(天正3年)

築城主

形 態

山城

備 考

史跡指定なし。関係者以外入山禁止。

参考文献

伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻五 大正5年11月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)

伯耆民諺記(寛保2年 松岡布政)

伯耆民諺記(写)(昭和23年 原田謙)

伯耆民談記 巻上(大正3年1月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)

伯耆民談記 巻下(大正3年3月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)

伯耆民談記(昭和2年10月 佐伯元吉)

伯耆民談記(昭和35年3月 印伯文庫)

日野郡史 前篇(昭和47年4月 日野郡自治協会)

日野郡史 中篇二(昭和47年4月 日野郡自治協会)

溝口町誌(昭和48年9月 溝口町誌編さん委員会)

溝口町制施行40周年記念 文化財ガイドブック ふるさと溝口(1993年 溝口町教育委員会)

溝口のおいたち 溝口町制30周年記念誌(昭和60年3月 溝口町役場)

西伯町誌(1975年 西伯町誌編纂委員会編)

縄張図

不明

 

概 略

古市集落の南側、小高く開けた台地が畑地となっており、此処が字「海蔵寺」であることから海蔵寺台地と呼ばれる。

父原から荘へ向かって林道を進むと石垣造りの2段の削平地が見え、此処を観音堂跡と伝えている。

一部の郷土史では観音堂が鎮座した場所を海蔵寺跡と伝え、別名を「海蔵寺館」としている。

海蔵寺跡と伝える観音堂では盆踊りや相撲など毎年祭りが行われていたとされるが、近年では祭りも往来もなく寂れてしまっている。

地元の方の話では観音堂跡には立派な石段が続いていたとするが、雑木の繁茂と山からの流水で確認ができなかった。

 

伯耆志 古市村の条 海蔵寺跡の項

村の頂上断岸二丈許にして平面方五丁許の地を都て海蔵寺と唱う。此地より又一層にして一段許の平地あり。此所に観音堂あり。此所四方の眺望によろし。一説に此地進豊前幸廣と云える人居住せしと云えり。近地墳墓多し。上に見ゆる幸廣夫妻の墓等往古は海蔵寺の地に在りしを後世今の地に移すと云えり。今按るに件の進氏は会見郡坂中村に住居せし進氏の一族なるべし。今、作州(欠字)郡(欠字)村に進五郎左衛門あり。此幸廣の後なりと伝えり。当家に就いてよく尋ぬべし。

 

溝口町誌

字「海蔵寺」にあり。の長者、進四郎三郎の居住した館跡という。

 

伯耆志では応永年間(1394年~1428年)、会見郡八幡ノ郷坂中村を拠点とした進氏の一族、進幸広によって台地への開拓が始められている。

古市村から3町ほど離れた山地(現在の字「海蔵寺」周辺)を切り崩し海蔵寺台地を造成したと伝えるが、この削平が当初から農地の拡張を目的とした事業とするのか、或いは真砂採取から鉄穴流しを行い砂鉄を得るのために始められた事業とするのかは不明。削平された造成地は後に開墾され耕作に適した地へと改変されている。

海蔵寺台地から庄(荘)村へ続く道中には1段(町)の広さを持つ平地があり、此処を海蔵寺と呼び、観音堂が鎮座したと伝えている。

観音堂には往古、城主の居館が所在したとする。

 

伯耆志 古市村の条 古墓の項

村中路傍に二あり。進豊前幸廣夫妻の墓と云えり。又、村の南庄村に至る路傍に一あり。詳ならず。

 

伯耆志 父原村の条 古墳の項

村の東南山脚に在り。古市村古墓の類ならん缼。

 

古市村内の路傍には進幸広夫妻の古墓と伝える墳墓と詳細が不明な墳墓が鎮座していたとあり、周辺には多くの墳墓が鎮座するとしている。

父原村には古墳の存在を記していることから近隣広範囲に墳墓が存在したことが伺える。

進幸広夫妻の墓は元々海蔵寺の居館近くに祀られていたが後世、海蔵寺の台地近くへ移されたとしている。

 

伯耆志 庄村の条 神主山根氏の項

進氏の子孫なるよし云えり。彼の作州進氏の文書あれども今詳ならず。

 

一族は海蔵寺台地の開拓が始まった応永年間(1394年~1428年)頃から1575年(天正3年)まで、7代に亘って当地に居住したとされる。

初代…進幸広

二代…進太良右衛門進幸広嫡子)

三代…進源太夫進太良右衛門嫡子)

四代…進甚九郎幸経進源太夫嫡子)

五代…進幸寛

六代…進九郎三郎

七代…進外記幸定進九郎三郎嫡子)

 

伯耆志では作州に移った進五郎左衛門進幸広の後裔としている。

当主は代々「進長者」と呼ばれ、世襲により「四郎三郎」の通称を名乗ったと推測される。

一説には野上庄を領有した人物の居館と伝え、この説の場合は伯耆国外構城の城主、進祐定が城主と推定している。

進祐定も通称を「四郎三郎」と名乗っていることから一部の郷土誌では進祐定を当城の城主としている記述も見える。

 

1491年(延徳3年)3月、四代城主、進幸経の頃に鎮守の一社として垂水権現が建立されている。

建立地は進幸経の居館から山中へ約1町(約110m)の場所としており、同時期に山の入口に六地蔵尊と数基の墓石が鎮座したとある。

この場所を堂屋敷、または寺屋敷と呼ぶとしている。(溝口のおいたち)

時期は不明だが金剛山海蔵寺もこの頃までには建立していたと推測される。

 

五代城主、進幸寛が周辺の神社10社の神主であったとされる。(溝口のおいたち)

赤岩権現(荘)、客大明神(荘)、大守大明神(宇代)、垂水権現(海蔵寺)、厳嶋神社(父原)、日光権現(三部)、八幡宮(福吉)、夭大明神(福吉)、児守大明神(船越)、若一王子権現(福岡)

 

1556年(弘治2年)、六代城主、進九郎三郎(九良三郎とも)が観音堂の一宇を建立し、金光山光音寺の開基となる。

 

1575年(天正3年)、七代城主、進幸定が海蔵寺山下の古市村へ居館を移したことに伴い廃城とされる。

この時に初代、進幸広と妻の墓も山下へ移されたとしており、以降は土公神として崇められたとしている。(溝口のおいたち)

 

1610年(慶長15年)、金剛山海蔵寺の本尊が金光山光音寺に移されている。

 

1912年(明治45年)、垂水権現が庄神社に合祀されるまでは海蔵寺跡に観音堂が鎮座し、村人の間で毎年盆踊りが催されていたと伝える。

 

注意事項

荘へ続く林道は関係者以外、入山禁止となっています。

当城館の見学は地元の方の許可がない限り行えませんのでお気を付けください。

また、海蔵寺台地への車での進入もご遠慮ください。

林道入口の注意書き

 

年 表

1394年~1428年

応永年間

進幸広によって海蔵寺台地の開拓が始まり、居館部も同時期の築城と推定される。(伯耆志、溝口町誌)

時期は不明だが金剛山海蔵寺もこの頃の建立と推測される。

1491年

延徳3年

3月、進幸経によって垂水権現が建立される。

1556年

弘治2年

進九郎三郎が観音堂の一宇を建立し金光山光音寺の開基となる。

1575年

天正3年

七代に渡り居城としたが、この頃に進幸定が居館を古市村へ移したことに伴い廃城とされる。

1610年

慶長15年

金剛山海蔵寺の本尊が金光山光音寺へと移される。

1912年

明治45年

垂水権現が庄神社に合祀される。

合祀されるまでは海蔵寺跡に観音堂が鎮座し、村人の間で毎年盆踊りが催されていたと伝える。

地 図

 

写 真

訪城日 2021/11/06

北西側からの遠望

北西側からの遠望(夕焼け)

西側からの遠望

南西側からの遠望

西側には野上川

西側には野上川

台地西側の麓には厳島神社

海蔵寺台地

海蔵寺台地

海蔵寺台地

海蔵寺台地

荘へと続く林道横の古墳

古墳と古墓

古墓

古墳中段から頂部

古墳頂部

古墳中段に石室痕か

古墳頂部から中段

古墳中段

古墳中段に虎口

古墳中段から帯郭状の腰郭

古墳中段の腰郭

古墳東側は堀切

堀切(作業道に転用か)

堀切の切岸

伝・堂屋敷(伝・寺屋敷)

伝・堂屋敷(伝・寺屋敷)

伝・海蔵寺館の入口

伝・海蔵寺館横の山道

伝・海蔵寺館

伝・海蔵寺館の石垣

伝・海蔵寺館の石垣

伝・海蔵寺館の二ノ郭

伝・海蔵寺館の二ノ郭

伝・海蔵寺館の二ノ郭から主郭

伝・海蔵寺館の二ノ郭から主郭

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