伯耆国 日野郡
にぶじょう
二部城
所在地
鳥取県西伯郡伯耆町二部(字古城山)
城 名
二部城(にぶじょう)
別 名
二部下要害(にぶしもようがい)…伯耆二部上要害と区別する便宜上の呼称。
二部要害城(にぶようがいじょう)…伯耆二部上要害を含めた広域の呼称。
築城主
築城年
1558年~1569年頃(永禄年間)
廃城年
不詳(慶長年間)
形 態
丘城
遺 構
郭跡(腰郭、帯郭)、土塁、空堀(横掘)、石垣、虎口、礎石、切岸、櫓台
現 状
山林、畑地、墓地
備 考
史跡指定なし
縄張図
二部城略測図(鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)) ※鳥取県教育委員会提供
参考資料(史料及び文献、郷土史など)
伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻五 大正5年11月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
日野郡史 前篇(昭和47年4月 日野郡自治協会)
日野郡史 中篇二(昭和47年4月 日野郡自治協会)
二部村郷土調査(平成16年3月 二部地区活性化推進機構)
溝口町誌(昭和48年9月 溝口町誌編さん委員会)
ふる里 野上の郷(平成11年12月20日 溝口町二部公民館 著)
溝口町制施行40周年記念 文化財ガイドブック ふるさと溝口(1993年 溝口町教育委員会編)
新修鳥取県神社誌 因伯のみやしろ(平成24年6月 鳥取県神社誌編纂委員会)
概 略
かつて宿場町として栄えた二部宿(二部村)の東側、字「古城山」(伯耆志では要害山)に所在する。
伯耆志には二部村内2ヶ所の古城跡を記しているが、土居山は伯耆国古寺生松城、要害山は当城と伯耆国二部上要害の2城を示すと考えられる。
当城と二部上要害を併せて「二部城」とする場合もあり、その際は当城を便宜上「二部下要害」と呼称している。
当城と二部上要害の構造はほぼ同じ造りとなっており、南側に主郭を配置し北側には広い平削地を設け兵員の駐屯地を確保している。
城主の居館とする古寺生松城から近い当城の方が施設の普請は入念に見えるが、北側の平削地は鉄穴流しの影響を受けたか畑地などへの改変による破壊が目立つ。
伯耆志 二部村の条 古城の件
溝口町誌
字古城山にあり。西に面する一弧山。足羽将監重成の居城の跡という。
伯耆志では江戸時代、鉄穴流しによって大きく破壊されていたことが記されている。
遺構の残存状態から東側の畑地周辺で行われたことが推測され、北東側の平削地では墓地や堂、東側では畑地への改変が見受けられる。
竹林の一部には土を取ったような痕跡も残る。(縄張図では北の郭跡にある一段高いL字型の地形部分など)
伯耆志 二部村の条 足羽氏の項
当家越前国朝倉氏に属し本国足羽郡に住す。故に足羽を以て氏とす。永禄年朝倉氏織田氏の為に亡ほさる。此時将監某本国を脱して当村へ来り要害山に住す。将監の子、太郎兵衛某其子理兵衛の時、要害山の居宅失火ありて累代の武器貨財等を失ひ此時譜代の家僕等皆離散して居を今の村落に移と云ふ。
城主とする足羽氏については足羽重成が伯耆国へ落延びてきたことに始まるなど詳細が見え、三代目の足羽理兵衛の頃に失火のため要害山の居宅を失い、現在の足羽家住宅の場所へ移ったとしている。(伯耆志)
ふる里 野上の郷 二部要害城の項
郷土史「ふる里 野上の郷 」では足羽氏と天寧山傳燈寺の関係性が伝えられている。
伯耆志 二部村の条 足羽氏の項
足羽理兵衛の頃、要害山の失火で住居など財産を失うが、屋敷を村落(現在の足羽家住宅)に移した後の慶長年間(1596年~1614年)には伯耆国米子城の城主、中村一忠や出雲国月山富田城の城主、堀尾氏の参勤交代に於いて、往路、復路の本陣として居館を提供したことから中村氏より15石の免地を賜っている。
1638年(寛永15年)、五代目足羽五兵衛の頃には松平直政が出雲国へ転封となり、参勤交代の際の本陣が足羽家に置かれている。
同じころ、二部宿が宿場町として完成し、松江藩から街道を整備するよう要望を受けるなど最盛期を迎えたとしている。
写 真
2014年10月12日