所 属
朝倉
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毛利
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中村
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加藤
▶
池田
よみがな
氏族名
あすわ し
足羽氏
越前国での呼称
別 名
あしわ し
足羽氏
伯耆国での呼称
官 途
ー
出身地
越前国足羽郡
伯耆国日野郡二部村
生 年
ー
没 年
ー
氏
不詳
姓
不詳
諱
ー
列 伝
越前朝倉氏に仕えた一族。越前国足羽郡に勢力を持った豪族とされる。
主家の滅亡後は伯耆国日野郡二部村へ落ち延び、二部足羽家として存続する。
越前では「あすわ」と読み、伯耆では「あしわ」と読まれる。
永禄年間(1558年~1570年)
越前朝倉氏の滅亡後、足羽重成は伯耆国日野郡二部村へと落ち延び、要害山に砦を築き住み着いたとある。(伯耆志)
二部足羽家の家伝では伯耆志と同様の内容が伝わっているが永禄年間に足羽重成が縁故を頼って来伯し、要害山に砦を構えて住居としたことを二部足羽家初代とする。
地元郷土史では永禄年間に二部城へ来城し、傳燈寺の外護を修復したとある。(ふる里 野上の郷)
足羽家の家伝や郷土史の内容からは越前朝倉氏が滅亡する以前、越前国を本拠とした頃より伯耆国との繋がりが伺える。
1573年(元亀4年/天正元年)
足羽家の伯耆国流転を越前朝倉氏の滅亡によるものとする伝承では刀根坂の合戦後と推定されている。
越前朝倉氏が滅びる前に先行して一族の一部を縁故のある伯耆国へ落ち延びさせていたなど年号が合わない理由は諸説考えられる。
慶長年間
三代目の足羽理兵衛の頃、失火により要害山の居館を焼き、家僕は離散し、多くの武具、家財を失っている。
この頃、現在の足羽家住宅の場所へ移ったとされるが、出雲国堀尾氏、伯耆国中村氏の参勤交代の往路、帰路には旅館(本陣)として屋敷を提供しており、中村氏からは十五石の免地を賜っている。
寛永年間(1626年~1645年)
足羽理兵衛の孫で五代目足羽五兵衛の頃、当家は最盛期を迎えたとある。
1633年(寛永10年)
松江藩主、堀尾忠晴の死去により堀尾家が改易となる。
1634年(寛永11年)
京極忠高が松江藩主となる。
1637年(寛永14年)
京極忠高が死去し京極家も改易となる。
1638年(寛永15年)
松平直政が松江藩主となると参勤交代の本陣が足羽家に置かれ、この頃に二部宿が宿場町として整ったと伝える。
松平直政は越前松平家の出身であり同郷の足羽家には何らかの便宜を図った可能性も考えられるが、この頃松江藩からの要請で街道の整備を申し付けられている。
2011年1月、17代目の当主が亡くなられている。