所 属

毛利

よみがな

人物名

もうり とうとうみのかみ ほんしょう

毛利遠江守本紹

 

法 名

ほうしょうじどのほんしょうだいきょし

法性寺殿本紹大居士

伯耆志(正覚山本紹寺の条)に記述

官 途

遠江守

出身地

不詳

生 年

不詳

没 年

1570年7月11日(元亀元年6月7日)

不詳

不詳

本紹

列 伝

伯耆国法勝寺城の城主と伝える。

伯耆志の記述から正覚山本紹寺を建立した際、既に入道号を称していたと考えられる。

 

毛利元就の系図に名が見えないことから架空或いは象徴とした人物とも考えられるが、周辺の村民は正覚山本紹寺を建立し、諡が即寺号となり、諱が村名の由来になったとすることから毛利元就或いは高貴な人物であったとしているが、伯耆志では村名が毛利氏の統治以前の成立から毛利元就が同一人物と伝える口碑を否定している。

 

伯耆志 法性寺村の条 正覚山本紹寺の項

法性寺殿本紹大居士と号する人の菩提寺なり。当寺旧は村の西に在りしと寛永中洪水に流れて今の地に移る故に古記制札等悉く亡いて開基建立の年紀も詳ならずといえり。彼法性寺殿本紹大居士の塚は村の西南鴨部村の境内にて古城山の下に在り。高三尺許の石に右の法名を刻す。年月を記せず忌日は六月七日と云えり。此人毛利本紹と云い伝えてかく寺をも建立し即寺号も此名を用い又諡号を以て地名とすれば尋常の人にあらず。其伝明らかなるべきに甚だ然らず。土人口碑に毛利元就を符合するは論ずるに足らず上に挙くる。永禄中の証文に既に法勝寺と見えたれば彼時以住の村名なり。陰徳太平記中尼子方に隠岐人法性寺某あれども本紹は毛利氏なれば此を考うべきにあらず此不審いかにも遺憾の事なり。

 

1570年7月11日(元亀元年6月7日)

毛利方の三村家親宇喜多直家討伐のため備前国への帰国に伴い法勝寺城の城主に任じられたとする。

伝承には尼子再興軍を率いた山中幸盛の襲撃を受け法勝寺城は落城し自刃とある。(伯耆志)

 

正覚山本紹寺は「法性寺殿本紹大居士」とする人物の菩提寺とされ、「法性寺殿」の銘から往古に法勝寺周辺を知行した法勝寺山名氏山名満幸を示すとも考えられる。

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