伯耆古城図録
やしろみねじょう / やよみねじょう
八代峯城
鳥取県日野郡日野町下黒坂
別 名
八代ノ峰城(やしろのみねじょう/やよのみねじょう)
遺 構
土塁、郭、堀切、二重竪堀(見方によっては畝状竪堀)、井戸跡
現 状
山林・天王神社
城 主
(平方)平宗盛の属将
築城年
不明
廃城年
不明
築城主
不明
形 態
丘城(鉄穴流し前は山城?)
備 考
史跡指定なし
参考文献
伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻四 大正5年10月 佐伯元吉)
日野郡史 前篇(昭和47年4月発行 日野郡自治協会)
黒坂歴史めぐり(平成23年3月 黒坂鏡山城下を知ろう会)
縄張図
八代峯城略測図(鳥取県教育委員会提供)
鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)
概 略
伯耆国下黒坂城より200mほど北上した丘陵に城郭が所在したと云われる。
土地台帳では所在した山を要害山(ようげやま)と呼び、「八代峰城」と言っても知らない人が多いとしている。(黒坂歴史めぐり)
日野郡内の伝承では平宗盛の属将が城主と伝わることから平安末期頃の城砦が起こりと推定される。
伯耆志 下黒坂村の条 古城の項
八代ノ峰(やしろのみね)と号す村の北四丁許にあり。伝詳ならず。
城砦の所在した城山はたたら製鉄のための真砂土採取によって削られ、江戸時代中期までにはほぼ消滅したと伝えている。
採られた真砂土は鉄穴流し(かんなながし)によって日野川を下り、その土砂が弓ヶ浜半島(米子市にある皆生一帯、もしくは日吉津や淀江の伯耆国小波城以北とも)を形成したとする説も唱えられている。
城砦に関する遺構は東側の堀切、その堀切に溜まった敵兵を射るための矢場(矢倉)の郭跡、北側の堀切と北西の畝状竪堀が推定されている。
矢場の地名は「内矢倉」、北側の地名は「殿山」とする。
山頂の平坦地は1955年(昭和30年)頃までは畑地であったが現在は雑木林となっており、矢場には天王神社旧社、或いは妙見さんの御堂が朽ちた状態で残存している。且つては麓から小道が続いていたが、2000年(平成12年)の鳥取西部地震によって崩れたとしている。
天王神社は主郭が所在したとされる平削地(郭跡)から南へ一段下った麓の郭跡に移され鎮座している。
地名の「八代(やしろ)」の由来として、城砦の所在した城山では矢の材料が取れ、無尽蔵に矢を生産できたことから「矢代」が元であるとする話を伺った。
平削された主郭跡には細身の竹が群生していることから、地元に伝わる地名の説の元になったことが伺える。
年 表
不明
平宗盛の属将が城主とされる。
不明
矢の材料が豊富に採取できたことから「矢代」と地名が付いたとされる。
矢場、矢倉などの地名から射撃戦に特化した城砦と推測される。
江戸時代中頃
鉄穴流しにより平削されほぼ消滅したと云われる。
地 図
写 真
訪城日 2013/07/05
南側からの遠望
南西側からの遠望
北西側からの遠望
北側からの遠望
城域の西側
城域の南西側
城域の南側
天王神社の社
天王神社境内
天王神社境内
境内には井戸跡の名残
天王神社から一段南の郭跡
主郭
主郭の土塁(東側)
主郭の土塁(北側)
北堀切と畝状竪堀
北西の畝状竪掘
北西の畝状竪掘
北西の畝状竪掘
北西の畝状竪掘より北の堀切
堀切(北側)
堀切(北側)
堀切(北側)
西側の横堀状の溝
天王神社旧社の郭跡(矢場)
集落には石垣
水田用の石垣