伯耆国 会見郡
やまいちばとりで
山市場砦

所在地
鳥取県米子市福市(字要害)
城 名
やまいちばとりで
山市場砦
山市場村への所在に因む
別 名
ごしょわらじょう
御所原城
新五千石風土記に記述
築城主
不詳(藤井吉兼が推定される)
築城年
不詳
廃城年
不詳
形 態
丘城、海城(日野川に対する)
遺 構
郭跡※、土塁※、堀跡※、切岸※
※ 東堀神社の造成を由来とするか
※ 横堀で切岸を伴う
現 状
東堀神社、墓地、畑地、山林、民家
備 考
史跡指定なし
縄張図
不詳
参考資料(史料及び文献、郷土史など)
伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻二 大正5年8月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
因伯記要(明治40年5月 鳥取県)
復刻発刊 因伯記要(昭和56年1月 ㈱矢谷印刷所)
尚徳村史(昭和3年頃 尚徳小学校編)
よなごのお寺(1991年 米子仏教会)
新五千石風土記 上巻(令和6年6月 新五千石風土記編纂委員会)
年 表
1333年
元弘3年 / 正慶2年
倒幕に失敗した後醍醐天皇が隠岐へと配流される際、随行していた瓊子内親王の同行は許されず当地に留まった後に安養寺を開基と伝わる。
1615年~1625年
元和年間
元和年間の寺社領検地により北部は公領として四日市村、南部は寺領として山市場村に区別され、当地は安養寺の寺領となった。(伯耆志)
1762年
宝暦12年
9月3日(旧歴7月15日)
日野川の洪水により山市場村の安養寺領が流出とある。
9月26日(旧歴8月9日)
先月の水害より更に5尺ほど高い水嵩の風水害に見舞われたと伝える。
概 略
東堀神社境内とその周辺、字「要害」に砦の所在を伝える。
尚徳村史では城主として藤井左近将監を挙げている。
藤井吉兼は同慶庵を開いたとする人物で、現在の人楽山同慶寺には明治時代に制作されたと伝わる像が祀られている。
伯耆志 山市場村の条 要害の項
南方村に続きたる山林の中なり。空隍の趾有り。伝承ならず。
伯耆志 山市場村の条 御所ヶ原の項
要害の東漸低き所より田土に及べる地にて安養寺より三丁許なり。次に記する所の後醍醐天皇、当村に車駕を止め給いしより起れる名なりといえり。
因伯記要 第三 元弘の義挙の条
元弘二年三月、後醍醐天皇の隠岐に遷駕せらるるや作州より伯耆に入り山市場及び車尾(共に西伯郡にあり)に駐輦せらるるもの数日にして海路出雲の安来を経て三保関に向わる(略)
伯耆志では歡山同慶庵主として藤井吉兼に関する記述、山市場村の要害と空堀、後醍醐天皇との関係が記述に見える。
元来、四日市村と山市場村は一つの村であったが、元和年間に寺社領の検地が行われ、北部を公領として四日市村、南部を安養寺領として山市場村の二村に分割され、当砦は安養寺領に属している。
新五千石風土記 上巻では山市場村にも100石の天領地があったとしている。
東を流れる日野川は天然の水濠となり、物資輸送の際には水運としても利用された一方、伯耆国戸上城の城下町、四日市村と同じく氾濫時の水害の脅威に度々頭を悩ませていたようである。
1762年9月3日(宝暦7月15日)
日野川の洪水により山市場村の安養寺領が流出とある。
1762年9月26日(宝暦8月9日)
先月の水害より更に5尺(約150cm)ほど高い水嵩の風水害に見舞われたと伝える。
新五千石風土記 上巻では江戸時代の文学作品「伯耆天文記(写本)」からの引用として当砦周辺を伯耆国御所原城としている。
水利を巡り御所原城の城主、岡田日向守が伯耆国戸上城の磯田近江守と争ったとしている。
※御所原城の推定地は御所原公園周辺の字「要害山」や字「捨て墓」周辺とする。
写 真
2013年6月23日





















