所 属

不明

よみがな

人物名

ふじい さこんしょうげん よしかね

藤井左近将監吉兼

 

 

別 名

ふじい なにがし

藤井某

後醍醐天皇の隠岐配流の際、寝食の場として自身の館を提供する

 

法 号

かんざんどうけいあんしゅ

歡山同慶庵主

 

官 途

左近衛将監

出身地

不詳

生 年

不詳

没 年

不詳

不詳

不詳

吉兼

列 伝

伯耆国山市場砦の城主で人楽山同慶寺の基となる同慶庵を開いたとする人物。

 

1324年10月7日(元亨4年9月19日)

正中の変によって左遷され、当地に居館を構えたことが寺の縁起に記される。(よなごのお寺)

 

伯耆志 山市場村の条

当時藤井某が宅地にして一旦之に入らせ玉い転じて深田氏に止まり給う。当寺は四日市村同慶寺の下に当時藤井氏は法体して彼の寺の開基たりという一説あり。是なるや否や稲田氏が筆記に初内親王箕村進氏が祖某が家に入らせ給うといえるは妄説なり。かくて天皇数日の後、深田氏を発して御渡海あり然れば御決別は彼の家にての御事なり。藤井氏が苗裔今断絶す。

 

伯耆志 山市場村の条

後醍醐天皇御霊社(方一間)同殿に天神若宮荒神熊野権現を合祀る。天神は彼の藤井氏が鎮守なりしと云えり。

 

伯耆志 山市場村の条 古書の項

二幅通計二十三図有て毎図標目あり。左の如し。

(略)第十一 帝数日止干伯州会見郡藤井某館(即今安養寺の地也)

 

1332年(元弘2年/正慶元年3月)

後醍醐天皇が隠岐の島へと配流となる際、寝食の場として自身の館を提供している。

後に深田氏の館へ移ったとするが、2月の出来事とするなど一部誤りが見えるとする。(伯耆志)

 

伯耆志 四日市村の条

当寺は元弘三年の草創にて開基歡山同慶庵主は山市場村に記する。

 

1333年(元弘3年/正慶2年)

出家し仏門へ入ると同慶庵を草創とされ、当初は天台宗に属する寺院であったと伝える。(伯耆志)

 

人楽山同慶寺には明治時代に作られたとする像が祀られており、背面には以下の文字が彫られている。

藤井左近将監歡山同慶庵主

元亨元辛酉 十月晦日 當山現住二十一世 須田俊應

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