よみがな

人物名

こうのほうきのかみ ちかとし

国府伯耆守親俊

出身

不詳

生年

不詳

没年

不詳

不詳

不詳

国府

通称

伯耆守

親俊

官途

伯耆守

別名

国司伯耆守親俊(こくし ほうきのかみ ちかとし / くにのつかさのほうきのかみ ちかとし)

 

国造伯耆守親俊(こくぞう ほうきのかみ ちかとし / くにのみやつこ ほうきのかみ ちかとし)

 

南条虎熊公伯耆守親俊(なんじょう くまとらこう ほうきのかみ ちかとし)

所属

伯耆山名

南条

列 伝

伯耆国高城城の城主と伝える人物。

伯耆民談記では名を「国府」とし、在地豪族であったことを伺わせるが郷土史や口伝によっては国司、国造などと変化して伝えている。

 

1524年(大永4年)、尼子経久による伯耆国への侵攻が始まると、居城であった高城城の周辺諸城は尼子方の攻撃を受け陥落している。

高城城を守る小勢では尼子方の大軍に到底敵わないと怖れ慄き、尼子方の軍勢が高城城へと向かう前から城を捨てて逃亡したと伝える。

この故事から高城城が唯落の城(ただおちのしろ)と呼ばれ、領民の嘲笑を受けたと記されている。(伯耆民談記)

 

伝承される名から一族については一定の推測ができる。

「国府」から連想する場合、山名氏の系図に「国府」の名を冠する人物が見えることから、伯耆山名氏の流れを汲む一族や婚姻関係を持つ在地豪族(後藤氏など)が考えられ、諱からは藤原氏の一族も考えられる。

「国司」から連想する場合、伯耆山名氏の一族或いは直下の配下、南条氏の一族なども考えられる。

「国造」から連想する場合、久米郡最後の国造石川氏の一族か。

 

福積の稲毛家に伝わる口伝では「南条虎熊公伯耆守親俊」と伝える。

文字に起こすと南条宗勝の有力な家臣であった人物と推測されるが、口伝による表現では同一人物で南条宗勝の別名として伝えている。

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