所 属
伯耆山名
南条
よみがな
人物名
こうのほうきのかみ ちかとし
国府伯耆守親俊
別 名
こくし ほうきのかみ ちかとし / くにのつかさのほうきのかみ ちかとし
国司伯耆守親俊
伯耆国の国司とする表記
別 名
こくぞう ほうきのかみ ちかとし / くにのみやつこ ほうきのかみ ちかとし
国造伯耆守親俊
伯耆国の国造とする表記
別 名
なんじょう くまとらこう ほうきのかみ ちかとし
南条虎熊公伯耆守親俊
福積稲毛家口伝
官 途
伯耆守(伯耆民談記)
出身地
不詳
生 年
不詳
没 年
不詳
氏
不詳
姓
不詳
諱
親俊
列 伝
伯耆国高城城の城主と伝える人物。
伯耆民談記では名を「国府」とし、在地豪族であったことを伺わせるが郷土史や口伝によっては国司、国造などと変化して伝えている。
伯耆民談記卷之第十四 久米郡古城の部
立縫の郷動土村にあり。国府伯耆守親俊が居城なり。大永四年尼子経久雲州より当国に攻入り国中の城々を攻立てし際、当城へは未だ手遣せざりしに、伯耆守大に驚き恐れ、すはや敵の多勢寄来ると心得、小勢にては籠城不叶とて、俄に城をあけて退散せりとなり。敵の攻めざる前におのれと落城に及びける故、郷民是を嘲けりて唯落の城と呼びしが今にその称あり。本名は高城という。
1524年(大永4年)
尼子経久による伯耆国侵攻(大永の五月崩れ)が始まると、居城であった高城城の周辺諸城は尼子方の攻撃を受け陥落している。
高城城を守る小勢では尼子方の大軍に到底敵わないと怖れ慄き、尼子方の軍勢が高城城へと向かう前から城を捨てて逃亡したと伝える。
この故事から高城城が唯落の城(ただおちのしろ)と呼ばれ、領民の嘲笑を受けたと記されている。(伯耆民談記)
伝承される名から一族については一定の推測ができる。
「国府」から連想する場合、山名氏の系図に「国府」の名を冠する人物が見えることから、伯耆山名氏の流れを汲む一族や婚姻関係を持つ在地豪族(後藤氏など)が考えられ、諱からは藤原氏の一族とも考えられる。
「国司」から連想する場合、伯耆山名氏の一族或いは直下の配下、南条氏の一族なども考えられる。
「国造」から連想する場合、久米郡最後の国造石川氏の一族とも考えられる。
福積稲毛家に伝わる口伝では「南条虎熊公伯耆守親俊」と伝える。
文字に起こすと南条宗勝の有力な家臣であった人物と推測されるが、口伝による表現では同一人物で南条宗勝の別名として伝えている。