所 属
但馬山名
よみがな
人物名
ながた ひぜん
長田肥前
伯耆民諺記、伯耆民談記での表記
別 名
ながた ひぜん
永田肥前
因幡志での表記
官 途
不詳(肥前守)
出身地
不詳(因幡国気多郡八葉寺村か)
生 年
不詳
没 年
不詳
氏
不詳
姓
不詳
諱
不詳
列 伝
因幡国気多郡八葉寺村周辺に一族30余名で勢力を持った地侍とされる。
1580年9月21日(天正8年8月13日)
東伯耆の長和田、長瀬川の戦いで敗戦を喫した山名氏豊が家臣の小林源蔵と共に因幡国鹿野城の城主、亀井茲矩を頼り宇野坂から南谷村へと落ち延びる。
1580年9月23日(天正8年8月15日)
鹿野へと向かう山名氏豊、小林源蔵を鳴滝村付近(或いは八葉寺村付近とも)で襲撃し殺害したとされる。(伯耆民諺記、伯耆民談記)
因幡志では在地の地侍として一定の地位があった人物としている。
長和田、長瀬川での合戦の後、吉川氏から周辺の村々へは落人を召し出すよう通達があったとされるが、褒賞目当てで山名氏豊らを殺害したとしている。(因幡志)
伯耆民諺記、伯耆民談記では群盗の頭目とされ、郷土誌でも山賊、夜盗など無法者として概ね落ち人狩りを行っていたとしている。