よみがな
人物名
たにもと かげゆ ただつね
谷本勘解由縄方
出身
不詳
生年
不詳
没年
不詳
氏
不詳
姓
名
谷本
通称
勘解由
諱
縄方
官途
勘解由使
別名
谷本勘解由忠方(たにもと かげゆ ただつね)…雲陽軍実記での記述。
所属
毛利
杉原
列 伝
杉原盛重の家臣。陰徳太平記では「谷本勘解由縄方」、雲陽軍実記では「谷本勘解由忠方」とする。
親友であった進易季からは大柄な巨漢であったことが語られている。
陰徳太平記 巻之四十八 伯州浄満原合戦之事
(略)杉原が手の者に進孫次郎易季とて名世の早業あり。梁上に巣くう燕の往来するを抜打に切けるに、毎度其尾さきを切て落しぬ。傍人是を見て、さしもの孫次郎が切り外して尾を切る事よと嘲いければ孫次郎、真中を切らば無用の殺生ならん事を思て尾を切る也。実に左思わや切殺して見せてんとを続けて二つ三つ切て落す。其外何の鳥たりと雖も、地上に求食する所を走り懸つて切けるに、更に外るる事なし。かかる早業也ける故、自賛の心甚し、渠が朋に谷本勘解由縄方とて勝れて肥たる者あり。進、谷本に向ていかに御辺は豊肥なる事、弥勒佛、布袋和尚、又は張蒼、董卓など云つべき形なれば事有らん時達者早業せん事は此孫次郎には及給わんと戯言しければ谷本聞て痩て武勇の功あらば出山の釈迦、十六羅漢獼猴と名付し王洪、憂而痩たる周伯仁、などこそ武篇手柄をば顕すべけれ。清痩にして衣勝不と云し沈郎が如き進殿も、さのみ珍しき事も候わじ。重て戦場に臨てこそ肥痩の勝劣は見せ申べけれと答えけるが、程無此合戦出来ければ、孫次郎一番に打ち出で、能頭二つを取て来り。谷本が前に擲出し、これを見給へと云えば谷本屹と見て、虱頭は何かせん。取程ならば名有らん首こそ首なをめと云い捨て唯一人敵の後を慕けるが、平野が百人許りの勢も或は返して討死し、又は落失せて今は加兵衛単身に成りて落行けるを見て、唯今其所を落被候は平野殿と見たるは如何に蓬くも引んより、返して切死にせよやと罵りければ平野艶くも追来れり。爲に来れ、手并の程を見すべきにとて、石に尻打掛けて待居たり。谷本太刀を抜て馳向い、火の出る程戦けるに平野は今宵度々の合戦に力落ち気労れけるにや戦負て遂に谷本が爲に討れにけり。谷本頓て頭掻切て、孫次郎を尋ね是々見給え。一つも一つに依可ぞ。一月に媚不とは是なるべしと云ければ、孫次郎嗚呼れたり。谷本他山の石以て玉を磨くと云えり。爾類錫とこそ云えけれど戯ながらも賞美しけるは艶き。盛重是を聞て両人肥痩に仍て勇を争う。谷本は肥て勇也。進は痩て猛し。されば古詩に短長肥痩各々體有。玉環飛燕敢憎と作れり。貴妃飛燕が妙態を以て二人が勇に比せんは奈何にと。大きに感じ戯れけり。此日、吉田肥前守元重、有坂二右衛門も能き敵打とりぬ。都て頭七十餘級、生捕二人と記しけり。
陰徳太平記では進易季から並外れた巨漢と伝える中国の偉人、張蒼(秦~前漢)や董卓(後漢)、果ては七福神の布袋和尚などふくよかを通り越した印象の人物や神様が引き合いに出されている。
進易季の揶揄に対しては「出山の釈迦」、「十六羅漢獼猴」、周顗(西晋~東晋)などを列挙して反論している。
出山の釈迦(苦行後の瘦せ細った姿)、十六羅漢獼猴(猿のような容貌)については外見上の揶揄と考えられるが周顗(周伯仁)については何を例えたか不明。
1571年(元亀2年)、伯耆国浄満原の戦いに於いて尼子方の平野久基を討ち取っている。(陰徳太平記 巻之四十八 伯州浄満原合戦之事)
合戦の開始早々に進易季が雑兵の首級を2つ挙げて戻ってくるが虱頭(雑兵の首)が幾つあっても自慢にならないと打出し、敵将のみを狙い追撃している。
浄満原の戦いに於ける戦果について杉原盛重からは「環肥燕瘦」の故事を用いて双方評価されており、進易季を「燕瘦」、自身を「環肥」と当てはめられている。
進易季とは太っている、痩せているなどとして互いを罵りあっているが作中では「渠が朋」とする表現が見えることから両者の間柄は親友と捉えて差し障りがなく、憎しみや憎悪からではなく単なる悪ふざけで日常の出来事であったことが伺える。