所 属

伯耆山名

藤原

よみがな

人物名

ありさわ さきょうのすけ

有沢左京亮

伯耆民談記などでは旧字体で「有澤」と表記

 

別 名

ありさわ さきょうのすけ

在沢左京亮

在原行平の子孫に因む表記で「在澤」とも

官 途

左京亮(伯耆民談記)

出身地

不詳

生 年

不詳

没 年

不詳

在原

朝臣

不詳

列 伝

伯耆国茶臼山城の城主と伝える。

平安時代初期に中央で権力を持った在原行平の後胤を称したとある。(伯耆民談記)

「在原」は「ありさわ」とも読むことができ、在原氏の本流に近い流れを汲む一族とも推測される。

北条町誌では橘行平(因幡守)の代官とする関係性を匂わすが、橘行平との関連を記す文書は見られず一切が不詳。

 

伯耆民談記 茶磨山の城

北條の郷、国坂村にあり。増田玄蕃有澤左京亮居住せり。各中納言行平卿の後胤なりといえり。永正年中、南條豊後守宗元の為めに落城し、城郭悉く烏有に帰せりと云う。天正八年、吉川元春、羽衣石の城攻田後合戦の時、息子元長、此山に在陣せり砦の跡今に残れり。

 

永正年間(1504年~1521年)

伯耆民談記では南条宗元(後の南条宗勝)の攻撃を受け落城とあり、烏有に帰したと表現されていることから徹底的な破壊や殺戮が行われたと推定される。

この出来事を最後に消息が途絶えることから南条宗勝との戦闘に因る落命が推測される。

 

鳥取縣神社誌 國坂神社

(略)古来、四宮大明神と称し武門武将の崇敬篤く、大永年間、茶臼山の城主、增田玄蕃、当社再興の擧あり。

 

大永年間(1521年~1528年)

鳥取縣神社誌では茶臼山城の城主、増田玄蕃が四宮大明神(国坂神社)を再興とある。

南条宗勝は1524年(大永4年)の尼子経久による伯耆侵攻(大永の五月崩れ)を受け国外へ退去していることから、増田玄蕃南条宗勝に降伏或いは逃亡して生き延び、尼子経久の伯耆侵攻では尼子方に与し南条方より茶臼山城を取り返したと推測される。

国坂神社の社伝には増田玄蕃のみが登場することから永正年間、南条宗勝の攻撃による落城の際、仮に南条方へ降伏し存命していたとしても尼子経久による伯耆侵攻(大永の五月崩れ)頃には死去したものと推測される。

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