所 属
伯耆山名
藤原
▶
南条
▶
尼子
よみがな
人物名
ますだ げんば
増田玄蕃
伯耆民談記などでは旧字体で「增田」と表記
別 名
ますだ げんばのじょう
増田玄蕃允
官途「玄蕃允」に因む表記
別 名
ますだ げんばのじょう
増田玄蕃丞
人名「玄蕃丞」に因む表記
官 途
玄蕃允
出身地
不詳
生 年
不詳
没 年
不詳
氏
在原
姓
朝臣
諱
不詳
列 伝
伯耆国茶臼山城の城主と伝える。
平安時代初期に中央で権力を持った在原行平の後胤を称したとある。(伯耆民談記)
北条町誌では橘行平(因幡守)の代官とする関係性を匂わすが、橘行平との関連を記す文書は見られず一切が不詳。
伯耆民談記 茶磨山の城
北條の郷、国坂村にあり。増田玄蕃、有澤左京亮居住せり。各中納言行平卿の後胤なりといえり。永正年中、南條豊後守宗元の為めに落城し、城郭悉く烏有に帰せりと云う。天正八年、吉川元春、羽衣石の城攻田後合戦の時、息子元長、此山に在陣せり砦の跡今に残れり。
永正年間(1504年~1521年)
伯耆民談記では南条宗元(後の南条宗勝)の攻撃を受け落城とあり、烏有に帰したと表現されていることから徹底的な破壊や殺戮が行われたと推定される。
同じく茶臼山城の城主と伝える有澤左京亮はこの出来事を最後に消息が途絶える。
鳥取縣神社誌 國坂神社
(略)古来、四宮大明神と称し武門武将の崇敬篤く、大永年間、茶臼山の城主、增田玄蕃、当社再興の擧あり。
大永年間(1521年~1528年)
鳥取縣神社誌では茶臼山城の城主として四宮大明神(国坂神社)を再興とある。
南条宗勝は1524年(大永4年)の尼子経久による伯耆侵攻(大永の五月崩れ)を受け国外へ退去していることから、永正年間の戦闘では南条宗勝に降伏或いは落延びるなどして生き延び、尼子経久の伯耆侵攻に際して尼子方へと与し南条方より茶臼山城を取り返したとも推測される。