武将列伝帖

むら たくみのかみ

武良内匠頭

【氏】不明【姓】不明【名】武良【通称】内匠頭【諱】不明

別 名

武良隣左衛門(むら りんざえもん)

武良某(むら なにがし)

出 身

不明

官 途

内匠頭、左衛門尉

所 属

尼子氏⇒毛利氏

生 年

不明

没 年

不明

 

- 列 伝 -

尼子家の宿老、亀井安綱の家臣で境水道の守備を担った伯耆国高岡城の城主とされる人物。

武良隣左衛門とも伝え、武良隣左エ門と簡略に記す場合も見られる。

一族の出自は島根県の隠岐の島にあるとされ、「和名類聚抄(和名抄)」にも穏地郡隠岐島後北部に「武良郷」と呼ばれる地名が存在したとする。(現在も各所に「武良」と名の付く場所が残る)

 

1566年(永禄9年)3月20日、自らの還暦祝いのために地引網(鰯漁見物)を行うとして主君の亀井安綱と主従二百余名を高岡城の陣屋に招いて酒宴を催している。

この時、既に毛利方へと内通しており酒宴は亀井安綱を出雲国鈴掛山城から誘き出すための罠であった。

宴席の開始と時を同じくして杉原盛重の率いる軍勢二千余騎が三保ノ崎(美保関)を出航、城主不在であった鈴掛山城の攻略へと向かっている。

早馬から鈴掛山城襲撃の報せを受けた亀井秀綱から清若丸と乳母を預かるが、亀井秀綱らの主力が退城した直後に反乱を起こし残った亀井方の兵と城内で乱戦となっている。(小磯戦争)

清若丸と乳母は護衛に当たった小磯又四郎や亀井方の武将の奮戦により高岡城から脱するが、乳母ヶ池付近で落命している。

鈴掛山城へ向かった亀井安綱も救援には間に合わず境の海岸にて切腹している。

小磯戦争後の動向は不明。

戦場となった城砦周辺には尼子方(亀井方)の将兵を弔ったとする五輪塔や五輪塚が多く残されていたと伝えられる。

 

郷土史では亀井秀綱の家臣としている。(史実と系図 竹内町四百年史)

妖怪漫画の巨匠、故水木しげる氏はこの人物が先祖(或いは一族)であると自称していた。

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