武将列伝帖

かめい のとのかみ ひでつな

亀井能登守秀綱

【氏】不明【姓】不明【名】亀井【通称】能登守【諱】秀綱

別 名

亀井太郎左衛門(かめい たろうざえもん)

出 身

不明

官 途

能登守、兵衛尉、左衛門尉

所 属

尼子氏

生 年

不明

没 年

1566年(永禄9年)

 

- 列 伝 -

尼子家の家臣で尼子経久に仕えた人物。

父を亀井安綱(武蔵守)、子を亀井安綱(能登守)とする。

 

1508年(永正5年)、大内義興の上洛に従った尼子経久に随行している。

 

1511年(永正8年)、山城国の船岡山合戦に参陣する。

 

1524年(大永4年)、相合元綱らを唆し毛利元就一派の排除を画策した計略は看破され、毛利元就が尼子方から寝返っている。

 

1530年(享禄3年)、所領の配分に不満を持つ塩冶興久の説得を続けていたが奏功せず内紛となる。

この頃に家督を継承したと考えられ、子の亀井安綱が能登守を名乗っている。

 

1566年(永禄9年)、第二次月山富田城の戦いで討死とある。

陰徳太平記では月山富田城の落城前に毛利方へ降伏したとするが、伯耆志では謬り伝えられた伝承として降伏したのは亀井茲矩であるとしている。

 

伯耆志では子の亀井安綱の列伝として伯耆国高岡城周辺で起きた小磯合戦に顛末が記述されており、武良某の内通により杉原盛重の襲撃を受けたため最終的に境村の浜辺で自刃している。(伯耆志 境村の条 新八幡宮の項)

高岡城が所在したとする境港市竹内町の郷土史では居城であった鈴垂城の落城する様を見ながら自刃したとしている。 (史実と系図 竹内町四百年史)

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