伯耆国 会見郡
たかおかじょう
高岡城
所在地
鳥取県境港市竹内町(字高岡)
※城跡推定地は鳥取県立境港総合技術高等学校内のため一般の方の立ち入りや見学はできません。
城 名
高岡城(たかおかじょう)
別 名
高城(たかしろ)
築城主
不詳
築城年
不詳
廃城年
不詳
形 態
平城・海城
遺 構
不明
現 状
境港総合技術高等学校(グラウンド)
備 考
史跡指定なし
縄張図
不詳
参考資料(史料及び文献、郷土史など)
伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻三 大正5年9月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
史実と系図 竹内町四百年史(昭和54年7月 竹内町薬師講保存会:西尾 栄 著)
境港市史(昭和61年3月 境港市)
年 表
不明
1566年
永禄9年
3月20日、武良内匠頭が自身の還暦祝いと称し、主君であった亀井安綱と主従二百余名を高岡の陣屋へ招待している。
武良内匠頭は毛利方へと内通しており、留守中の出雲国鈴掛山城を狙い毛利方の杉原盛重率いる二千余騎が三保ノ崎(美保関)より出航している。
早馬で鈴掛山城の危急を知った亀井安綱であったが武良内匠頭の寝返りには気付かなかったようで、清若丸と乳母、小磯又四郎らを当城へ預け境村まで引き返すが鈴掛山城は既に落城していた。
亀井安綱は境の海岸(一説には現在のJR境港駅周辺)にて無念の切腹をし果てたとされる。
当城に残った清若丸と乳母、小磯又四郎は武良方の反乱に遭うが城内に残っていた亀井方の武士達によって城を脱している。
逃走中、乳母ヶ池(小磯池)近くの草むらに潜んでいたが、清若丸が草の穂先で目を突き泣き叫んだところを武良方の兵に発見され、観念した小磯又四郎は清若丸の首を斬り落とし地中に深く埋めた後、乳母と共に切腹し果てたと伝わる。(乳母ヶ池の戦い、小磯合戦)
異説小磯伝記では亀井安綱ら一行は現在の境港大港神社付近にあった坂江大明神に立ち寄り祈祷を受けている。
この時、家老の手島四郎五郎は不吉な予感がするとして武良内匠頭からの誘いを断るよう進言するが聞き入れられず、結果として境の海岸で切腹し果てるという内容を史実としている。
概 略
旧境工業高校(現境港総合技術高校)のグラウンド中央付近の旧字名が「高岡」とされ、周辺が城郭であったと伝える。(史実と系図 竹内町四百年史)
伯耆志 竹内村の条 廃墟の項
高岡城跡と古松三幹あり。往古武良某(倭名抄に隠岐国穏地郡武良ありこれに因あるか)此所に居りしと云えり。今村中其の裔あり伝境村新八幡宮の下に記す。
伯耆志 境村の条 新八幡宮の項
(略)当時一族尼子経久富田城に在て武威を四方に振う。亀井氏自然これか麾下たり。永綱の子安綱能登守と号す。しばしば武功を著はして永禄九年島根郡鈴垂城(当村より海を隔て十二丁許)にあり。その頃竹内村に武良某ありて安綱の知己より毛利氏の将尾高城主杉原盛重これを聞て武良氏を語らい安綱に漁獲を進めて其家至らしむ。長臣手島四郎三郎、小磯又四郎人心測り難きを以てこれを諫むれとも安綱聴かずして約の如くす。又四郎以下五十余人此に従う。三月二十日なり。武良氏餐応して薄暮に及ぶ時盛重之を囲みて鬨を発しければ安綱狼狽して一方より遁れ走り当村迄帰りけるが既に城に火を掛けて敵兵乱入せり。今は前後の大勢に敵すべきにあらされば遂に此処に自殺せり。郎党共或は戦死し或は自殺す。子清若丸は乳母に伴われて竹内村まで落行しを二人共彼地にて討たる。又四郎も其所に自殺す。(竹内村の下見合すべし)四郎三郎は城中にて戦死せり後、竹内村民に祟る事あるに因て霊を祀て新八幡と称せしを後又此地安綱自殺の所に移し(今の社地より西五丁許なり)中間又他に伝えし享保中今の地に移すといえり。(大篠津村以北の村々に古墳枚挙すべからず。此時戦死の武士の塚と云えり。これに委しく姓名を配当したる筆記あるは後人の妄作なり。陰徳太平記に当年七月富田城落城の前、亀井安綱諸将と共に降人に出つと記するは謬伝なり。弟新二郎あり。前年出雲に戦死す。又一弟新十郎茲矩富田に在りしか落城後東に走り後羽柴氏に属して遂に数万石を領す。武蔵守之れなり。当時姓を湯とせしは茲矩出雲玉造の湯村に在りし故にて後旧姓に復せしなり。因幡志に後尼子家の旧臣亀井氏を相続すと記するは誤なり。次に挙る文を以ても旧姓たること明らけし)江北記に天文中安綱近江佐々木氏の将、浅井氏に答うる所の書簡を記せり其文
貴札拝見仕候今度民部少輔備中作州罷立回国悉落去候雪中の儀候間先帰宅仕候明春者早々播州に可致其働候被及聞召預御使候誠恐入候伊豫守可捧書状候只今聊参候間来春従是可申由に候猶御使に申入候恐惶
安綱 判
浅井備前守殿 参御報
天文五年十二月出雲尼子陣所へ下坂村田為御使被遣候時亀井総四郎返礼之案分如此候山田越中守方へも同前に候也加様に披露状之儀也是高清の御代なり
此奥書は後佐々木家の臣の記す所なり惣四郎は安綱の初名なり。かくて当社に仕うる杉山氏は上の杉山氏の別家にて享保中筑後と云いしを祖とす。
伯耆志が編纂された頃には既に廃墟とされ、古城主として武良内匠頭の名が見える。
1566年(永禄9年)、武良内匠頭の内通に端を発した杉原盛重との戦闘では城が放火され、尼子方の将兵の多くが戦死している。
長臣の手島四郎三郎は城内で戦死、亀井安綱の息子や乳母の護衛であった小磯又四郎は武内村にて自刃している。
旧字「高岡」周辺には五輪塔、五輪塚が多数存在したとされ、古老の云い伝えでは五輪塚から出土した人骨は車で数台分もの量があり遺骨や五輪塔は瑠璃光山大同寺に移され境内に安置されている。
五輪塔が移された瑠璃光山大同寺は旧字「高岡」から南に200メートル程の位置に所在し、かつては北側の旧街道で当城と繋がっていたと伝わる。(現在も途中までは道が残っているとのこと)
境内に鎮座する小磯神社は亀井安綱の家臣で乳母の夫、小磯又四郎を弔った社とも伝えている。
郷土史では出雲国鈴垂城の城主を亀井安綱ではなく亀井秀綱としている。(史実と系図 竹内町四百年史)
周辺の地名に旧字「岡才仏」、旧字「灘才仏」と見えるのは当城での戦い及び乳母ヶ池の戦い(小磯合戦)で戦死した亀井方の将兵を弔う気持ちを込めて「才仏」と付けられたと云われる。
写 真
2013年11月6日