伯耆古城図録

たかおかじょう

高岡城

鳥取県境港市竹内町字高岡

※城跡推定地は鳥取県立境港総合技術高等学校内のため一般の方の立ち入りや見学はできません。

別 名

高城(たかしろ)

遺 構

不明

現 状

境港総合技術高等学校(グラウンド)

城 主

(尼子方)武良内匠頭

(毛利方)武良内匠頭

築城年

不明

廃城年

不明

築城主

不明

形 態

平城・海城

備 考

史跡指定なし

参考文献

伯耆志

伯耆民談記

異説小磯伝記

境港市史

史実と系図 竹内町四百年史(竹内町薬師講保存会) 

縄張図

不明

 

概 略

旧境工業高校(現境港総合技術高校)のグラウンド中央付近の旧字名が「高岡」とされ、周辺が城郭であったと云われる(史実と系図 竹内町四百年史)

 

伯耆志 竹内村の条 廃墟の項

高岡城跡と古松三幹あり。往古武良某、此所に居りしと云えり。今村中其の裔あり。(略)伝、境村新八幡宮の下に記す

 

伯耆志が編纂された頃には既に廃墟とあり、古城主として武良内匠頭(武良某)の名が見える。

 

城跡付近には五輪塔、五輪塚が多数存在していたようで古老の云い伝えによれば五輪塚から出土した人骨は車で数台分もの量があったと云われ、五輪塔は瑠璃光山 大同寺に移され境内に安置されている。

五輪塔が移された瑠璃光山 大同寺境港総合技術高校から南に200メートル程の位置に所在し、かつては北側の旧街道で当城と繋がっていたと伝わる。

(現在も途中までは道が残っているとのこと)

境内に鎮座する小磯神社は亀井秀綱の家臣で乳母の夫、小磯又四郎を弔った社とも云われる。

 

周辺の旧字に「岡才仏」「灘才仏」と見えるのは当城の戦い及び乳母ヶ池の戦い(小磯合戦)で多くの亀井方の武士が戦死したとされることへの弔いの気持ちを込めて「才仏」と付けられたと云われる。

 

年 表

不明

尼子方の出雲国鈴掛山城鈴垂城)の支城として伯耆側(弓ヶ浜半島)に当城、伯耆国先白手城、伯耆国佐斐神城の三城を配して境海峡の守備を担ったとされる。

1566年

永禄9年

3月20日、尼子方で当城の城主であった武良内匠頭が自身の還暦祝いと称し主君の亀井秀綱と主従二百余名を当城の陣屋へ招いたとされるが、この時、既に毛利方と内通していたとされる。

鈴掛山城へは毛利方の杉原盛重率いる二千余騎が軍船多数を従え美保湾より攻略に向かっている。

 

鈴掛山城からの早馬で危急を知った亀井秀綱は若君の清若丸と乳母の夫、小磯又四郎を当城に残し境村まで引き返すが鈴掛山城は既に落城とある。(亀井秀綱武良内匠頭が毛利方へ寝返った事を知らず、清若丸と乳母らを当城へ預け出雲国鈴掛山城へと向かったとしている)

鈴掛山城の落城を知り、亀井秀綱は境の海岸(一説には現在のJR境港駅周辺)にて無念の切腹をし果てたとされる。

 

当城に残された清若丸と乳母、小磯又四郎武良内匠頭の反乱に遭うが城内に残っていた亀井方の武士達によって城を脱したとされ、乳母ヶ池(小磯池)近くの草むらに潜んでいたが清若丸が草の穂先で目を突き泣き叫んだところを武良方の兵に発見されると小磯又四郎は「もはやこれまで」と清若丸の首を斬り落とし地中に深く埋めた後、乳母と共に切腹し果てたと伝わる。(乳母ヶ池の戦い、小磯合戦)

 

異説小磯伝記では亀井秀綱らが当城へ赴く途中、一行は現在の境港大港神社付近にあった坂江(境)大明神で祈祷を受けている。

その際に家老の手島四郎五郎は不吉な予感があるとし武良内匠頭からの誘いを断るよう亀井秀綱に諫言を行ったが聞き入れられず、結果として境の海岸で切腹し果てるという記述があり、こちらが史実とも云われる。

地 図

写 真

訪城日 2013/11/6

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