伯耆古城図録
さいのかみじょう
佐斐神城
鳥取県境港市佐斐神町(字城ノ内)
別 名
才神城 / 佐斐ノ神城(さいのかみじょう)
遺 構
不明(空港ビル正面の駐車場の字名が城ノ内。昭和57年頃の米子空港建設に伴い消滅とする)
現 状
米子空港、航空自衛隊美保基地、空港ビル、米子空港駐車場、滑走路
城 主
不明
築城年
不明
廃城年
天正年間
築城主
不明
形 態
不明
備 考
史跡指定なし
参考文献
伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻三 大正5年9月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
史実と系図 竹内町四百年史(昭和54年7月 竹内町薬師講保存会:西尾 栄 著)
諏訪神社由緒書(社伝)
縄張図
不明
概 略
米子空港ビル正面駐車場周辺の字名が「城ノ内」とあり、この周辺が城跡と推定される。
佐斐神町内には「城ノ内」から東に字「東屋敷」、字「下東屋敷」、字「下西屋敷」、財ノ木町には字「上屋敷」、字「西屋敷」が見え、佐斐神町の南端に字「垣内」が見える。
伯耆誌 佐斐神村の条
村の西北松林中に道祖神(サイノカミ)の祠あり。村名これに起こる。サへをサヒに訛れるなり。延享の頃、和田村井田氏及び一族両家の開発する処と云えり。
伯耆誌 古墳の条
七。支村中原の地に在り。伝詳ならず。
伯耆誌 廃墟の条
右の地二所にあり。伝亦詳ならず。
伯耆志では佐斐神村の村名の由来を集落から西北の松林に道祖神を祀った祠が鎮座していたこととしている。
字「城ノ内」の西隣の字名は「一ツ松」となっていることから、道祖神を祀った祠が且つての城跡に由来したとも推測される。
当城は尼子氏が島根半島に領した出雲国鈴掛山城の支城の一つとされ、伯耆側の弓ヶ浜半島には当城、伯耆国高岡城、伯耆国先白手城の三城が所在したと云われる。
城砦については仔細不明であるが廃城後に和田村の井田氏によって城跡(旧字・城ノ内)に祠が建立されたと伝わる。
村内には城に関係すると考えられる旧字に「中堀(なかぼり)」「八代堀(やだいぼり/やしろぼり)」「城ノ内(じょうのうち/しろのうち)」が見える。
当地を開発した和田村の井田氏に関しては諏訪神社の社伝に記述が見える。
和田村の井田氏は井田久左衛門とされ、武田信玄の家臣、井田藤右衛門の一族で井田家6代目にあたり、天正年間の頃、佐斐神に祠を建て崇拝したと伝わる。
佐斐神村が存在した現在の佐斐神町は町域全てが米子空港(米子鬼太郎空港は愛称)となっている。
近世、米子空港は大東亞戦争、朝鮮戦争で軍事拠点として使用されていたため飛行場の図面は元より周辺の地図や地形図なども軍事機密扱いで秘匿されていたと云われる。
飛行場造成前の地形図などが現存しているのかも不明でかつての佐斐神村を知る書物は見つけられない。
城郭の所在したと推定される字「城ノ内」は現在の米子空港ビルの正面駐車場の辺りとされるが、かつて祠があったとする場所は空港ビル施設内、或いは滑走路の何処かとされる。(資料によっては滑走路延長前のJR山陰本線の線路以北にあったと略図にて記述も見える)
※この度の写真撮影及び掲載には米子空港さんより許可を得て行っています。
※航空自衛隊美保基地の関連施設(共用部以外)の撮影はNGとの事なので掲載していません。
年 表
不明
1563年
永禄6年
毛利氏に帰順していた出雲国白鹿城が1562年(永禄6年)11月5日、本城常光の殺害をきっかけに再び尼子氏へと帰順している。
毛利方によって攻められ2ヶ月に渡る戦の末、水源を絶たれた白鹿城は開城し落城した。
尼子方の将、松田満久は自刃、子の松田誠保は隠岐へと逃亡している。
白鹿城の落城後、弓ヶ浜に在陣していた毛利方の部隊を尼子方の兵が奇襲するも敗れたと云われ、この時に毛利軍が在陣していた城の一つに当城があったと推測される。
1573年~1591年
天正年間
武田信玄の家臣、井田藤右衛門の一族で井田家6代目、井田久左衛門が信州諏訪神社より分霊を勧請し佐斐神に祠を建て崇拝したと伝わる。
井田久左衛門が分霊を納めて信州から背負って帰ったとされる皮の行李が現在も諏訪神社に祀られている。
廃城後、井田氏によって城跡へ道祖神の祠が建立されていることから毛利氏によって尼子氏が西伯耆から駆逐され暫くの後に廃城したと推定される。
地 図
写 真
訪城日 2013/11/6
米子空港ビル
米子空港ビル
空港ビルからの眺め(東南側)
空港ビルからの眺め(北側)
空港ビルからの眺め(南東側)
空港ビルからの眺め(南側)
空港ビルからの眺め(北東側)
空港ビルからの眺め(南西側)