伯耆古城図録

さきしらてじょう

先白手城

鳥取県米子市大篠津町

別 名

先城(さきしろ)

遺 構

郭跡、堀跡

現 状

国有地、原野、旧諏訪神社跡地

城 主

(尼子方)安田左近将監

築城年

不明

廃城年

不明

築城主

不明

形 態

平城

備 考

史跡指定なし※美保基地(米子空港)の航空範囲による危険区域指定

参考文献

伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻三 大正5年9月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)

諏訪神社由緒書(社伝)

大篠津町史

和田御崎神社由緒

史実と系図 竹内町四百年史(昭和54年7月 竹内町薬師講保存会 西尾 栄 著)

縄張図

不明

 

概 略

かつて諏訪神社の社殿が鎮座した場所の旧字を「的場」と伝え、社殿から北方に所在した小丘の旧字が「城跡」であったと伝える。

旧字「城跡」の周辺には土盛も見えるが、移転前のJR境線大篠津駅(駅舎は消滅)の正面へと続くアスファルト舗装上に存在することからJR境線大篠津駅の移転工事や弧線橋の敷設工事、東側に新設されたコミュニティ広場建設などに関係する造作物と考えられ、土盛の上には記念樹の植樹も見える。

 

大篠津村には旧字「元屋敷」の地名も見えることから往古は城主や家臣の居館、近代には庄屋の屋敷などが存在した可能性も伺わせる。

 

伯耆志 大篠津村の条 廃墟の項

村の西北、松林中の小丘なり。土人先白手(サキシラテ)と呼ぶ。先城跡(サキシロアト)の訛にや伝詳ならず。

 

伯耆志 大篠津村の条 的場の項

上の廃墟に在りし人の的場なるべし。又、村の西の田中に古墳三個あり。又、南に一個あり。土人此地を耕して破壊の甲冑を得る事ありと云へり。

 

伯耆志では城名の由来を訛りによるものと推測し、城主の的場が所在したとする。

史実と系図 竹内町四百年史では城主を尼子方の安田左近将監としている。

 

旧諏訪神社の建立や移転による除去、JR境線の線路変更、大篠津駅の移転、跨線橋の建設など度重なる改変を受けているため城跡に関する遺構の殆どが破壊されていると推定される。

 

国土地理院の発行する航空写真では1974年~1978年頃に撮影された写真が確認でき、跨線橋建設前の様子を伺うことができる。

且つての集落南側を流れる水路が堀の名残を伺わせ、大篠津村の字名には堀の名が付く地名も多く残る。

字「芝川西久蔵堀」、字「藤兵衛堀」、字「西外堀」、字「東外堀」、字「外堀」、字「東大堀」、字「西内堀」

残存する字名から村内に多くの堀(或いは水路)が存在していたことが判る。

 

年 表

不明

築城年及び築城主は不明。

尼子方の出雲国鈴掛山城鈴垂城)の伯耆国側の支城として当城、伯耆国高岡城、伯耆国佐斐神城の3城で弓ヶ浜半島から境海峡の兵站と守備を担ったと云われる。

1563年

永禄6年

1562年(永禄6年)11月5日、尼子方へ降った本城常光が謀殺されると毛利方に属していた出雲国白鹿城が再び尼子方へ帰順。

白鹿城の落城後、弓ヶ浜半島に駐屯する毛利方の部隊に対して尼子方の残兵が奇襲を仕掛けるも敗れた事が伝わることから、この時に毛利方の部隊が在陣した城の一つが当城と考えられる。

天正年間

井田藤右衛門の一族で井田家6代目、井田久左衛門が信州諏訪神社の分霊を勧請し佐斐神に祠を建てて尊崇したと伝わる。(諏訪神社社伝)

この頃の当城についての記述は見られないが毛利氏によって尼子氏が西伯耆から駆逐された頃に廃城したものと考えられる。

1649年

慶安2年

大篠津、佐斐神、下和田の中央地に当たる旧社地に社殿を立て、三ヶ村の大氏神として祀ったと伝わる。

不明

耕作の際に古い甲冑が出土したとある。(伯耆志)

1942年

昭和17年

飛行場の障害になるとして樹齢600年を越える3本の松「諏訪の松」が中途から伐採とある。

1950年

昭和25年

朝鮮戦争時、米軍によって「諏訪の松」は根元から切り倒されたとある。

1984年

昭和59年

美保基地周辺整備による危険地域の指定により諏訪神社が移築。

地 図

 

写 真

訪城日 2013/11/06

旧諏訪神社跡地(的場)

西側の跨線橋から旧字「城跡」

旧字「城跡」付近の土盛

南西の跨線橋から旧社殿跡

土盛は大篠津駅移転時の造作か

アスファルト舗装の上に土盛

旧社地から南に展開する区画

南の区画は重機による改変有

旧社殿から東に展開する区画

旧社殿跡地の礎石

南側から西側にかけて水路

堀跡

移転後の諏訪神社

諏訪神社の記念碑

上 へ

戻 る