伯耆国 会見郡
さきしらてじょう
先白手城
所在地
鳥取県米子市大篠津町
城 名
先白手城(さきしらてじょう)
別 名
先城(さきしろ)…転訛された呼称とする。(伯耆志)
築城主
不詳
築城年
不詳
廃城年
不詳
形 態
平城
遺 構
郭跡、堀跡
現 状
原野(国有地)、旧諏訪神社跡地
備 考
史跡指定なし※美保基地(米子空港)の航空範囲による危険区域指定
縄張図
不詳
参考資料(史料及び文献、郷土史など)
伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻三 大正5年9月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
諏訪神社由緒書(社伝)
大篠津町史
和田御崎神社由緒
史実と系図 竹内町四百年史(昭和54年7月 竹内町薬師講保存会 西尾 栄 著)
年 表
不明
1562年~1563年
永禄5年~永禄6年
1562年12月1日(永禄5年11月5日)、尼子方へ降った本城常光が謀殺されると毛利方に属していた出雲国白鹿城が再び尼子方へ帰順する。
白鹿城の落城後、弓ヶ浜半島に駐屯する毛利方の部隊に対して尼子方の残兵が奇襲を仕掛けるも敗れた事が伝わることから、この時に毛利方の部隊が在陣した城のひとつと考えられる。
天正年間
井田藤右衛門の一族で井田家6代目、井田久左衛門が信州諏訪神社の分霊を勧請し佐斐神に祠を建てて尊崇したと伝わる。(諏訪神社社伝)
この頃の当城についての記述は見られないが毛利氏によって尼子氏が西伯耆から駆逐された頃に廃城したものと考えられる。
1649年
慶安2年
大篠津、佐斐神、下和田の中央地に当たる旧社地に社殿を立て、三ヶ村の大氏神として祀ったと伝わる。
不明
耕作の際に古い甲冑が出土したとある。(伯耆志)
1942年
昭和17年
飛行場の障害になるとして樹齢600年を越える3本の松「諏訪の松」が中途から伐採とある。
1950年
昭和25年
朝鮮戦争時、米軍によって「諏訪の松」が根元から切り倒されたとある。
1984年
昭和59年
美保基地周辺整備による危険地域の指定により諏訪神社が移築される。
概 略
かつて諏訪神社の社殿が鎮座した場所の旧字を「的場」と伝え、社殿から北方に所在した小丘の旧字が「城跡」であったと伝える。
旧字「城跡」の周辺には土盛も見えるが、移転前のJR境線大篠津駅(駅舎は消滅)の正面へと続くアスファルト舗装上に存在することからJR境線大篠津駅の移転工事や弧線橋の敷設工事、東側に新設されたコミュニティ広場建設などに関係する造作物と考えられ、土盛の上には記念樹の植樹も見える。
大篠津村には旧字「元屋敷」の地名も見えることから往古は城主や家臣の居館、近代には庄屋の屋敷などが存在した可能性も伺わせる。
伯耆志 大篠津村の条 廃墟の項
村の西北、松林中の小丘なり。土人先白手(サキシラテ)と呼ぶ。先城跡(サキシロアト)の訛にや伝詳ならず。
伯耆志 大篠津村の条 的場の項
上の廃墟に在りし人の的場なるべし。又、村の西の田中に古墳三個あり。又、南に一個あり。土人此地を耕して破壊の甲冑を得る事ありと云えり。
伯耆志では城名の由来を訛りによるものと推測し、城主の的場が所在したとする。
史実と系図 竹内町四百年史では城主を尼子方の安田左近将監としている。
旧諏訪神社の建立や移転による除去、JR境線の線路変更、大篠津駅の移転、跨線橋の建設など度重なる改変を受けているため城跡に関する遺構の殆どが破壊されていると推定される。
国土地理院の発行する航空写真では1974年~1978年頃に撮影された写真が確認でき、跨線橋建設前の様子を伺うことができる。
且つての集落南側を流れる水路が堀の名残を伺わせ、大篠津村の字名には堀の名が付く地名も多く残る。
字「芝川西久蔵堀」、字「藤兵衛堀」、字「西外堀」、字「東外堀」、字「外堀」、字「東大堀」、字「西内堀」
残存する字名から村内に多くの堀(或いは水路)が存在していたことが判る。
写 真
2013年11月6日