所 属

伯耆山名

尼子

毛利

よみがな

氏族名

ふじわら し

藤原氏

官 途

出身地

不詳

生 年

没 年

藤原

朝臣

列 伝

藤原鎌足中臣鎌足を始祖とする一族。

伯耆国内では支流の一族が平安時代頃、法勝寺周辺に勢力を持ち会見郡長田荘を治めている。

 

1190年11月12日(文治6年/建久元年10月13日)頃

大舎人允の藤原泰頼が伯耆国会見郡長田の庄得替を願い出て所領安堵の沙汰を得ている。

 

1320年(元応2年)頃

会見郡長田荘の周辺は藤原泰親が勢力を保っていたことが伺え、後醍醐天皇の時代頃の製作とされる鉄鋳仏の光背に「大檀那藤原泰親大願主藤原氏女院主宗賀大工道覚 元応二庚甲四月廿一日」と銘が見える。

 

1524年(大永4年)

伯耆山名氏の配下として伯耆国稲吉城を治めた一族を伝える。

尼子経久による伯耆侵攻(大永の五月崩れ)を受けるが山中に土管を敷き、飲み水を確保するなど籠城の備えは万全であり、難攻不落の城砦であったとしている。

尼子方に包囲されながらも籠城戦を続けたが、城主の母が息子の助命と引き換えに稲吉城の水源が後方の山中にあると尼子方に教えたことにより城内は水を絶たれ落城する。

尼子の兵は助命の約束を破り城主を殺害したと伝える。

 

伯耆志 宮前村の条 古屋敷の項

社地の北の地名をかく呼びて空堀の形あり。棟札に天文四年、代官藤原某と記せるあり。此人の墟なりと伝へり。尼子の臣なるべし。

 

1535年(天文4年)

尼子方の代官として伯耆国宮前館藤原某が居住したと伝え、尼子氏の支配下に組み込まれた一族があったとする。(伯耆志)

 

山陰地方を毛利氏が掌握すると伯耆国は吉川氏による統治が行われ、吉川氏も藤原南家の流れを汲むことから吉川元春藤原朝臣元春とする棟札も見える。

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