伯耆古城図録

みやまえやかた / みやまえのやかた

宮前館

鳥取県西伯郡南部町宮前

別 名

宮前古屋敷(みやまえふるやしき)

遺 構

郭跡、土塁、空堀、竪堀、井戸跡、切岸、礎石

現 状

山林、水田、畑地、墓地、加茂神社

城 主

(尼子方)藤原某

築城年

不明

廃城年

不明

築城主

不明(藤原氏が推定)

形 態

居館跡、平山城

備 考

史跡指定なし

参考文献

伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻二 大正5年8月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)

会見町誌(昭和48年11月 会見町誌編さん企画委員会)

会見町誌 続編(平成7年10月 会見町誌編さん企画委員会)

会見町誌 完結編(平成16年9月会見町誌完結編編纂委員会 )

縄張図

宮前館略測図(鳥取県教育委員会提供)

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)

 

概 略

当館より西の峰山には伯耆国峰山砦が所在し、更に西へ越えると伯耆国古要害が所在することから、峰山砦古要害を詰城として運用及び管理を行うための平時の居館と推測される。

峰山砦及び古要害は伯耆国手間要害の属城であり、丑寅(艮)方面に対する防備の最前線となることから、居館部に於いても竪堀や土塁など防衛用の施設が存在している。

 

1021年~1023年(治安元年~治安3年)、藤原範永が伯耆守の兼任を任じられた頃は会見郡の坂中村を境界として、東側は巨勢氏紀氏の一族)、西側は星川氏巨勢氏の一族)の采地とされている。

当館、伯耆国浅井土居敷、伯耆国高姫方形館などは星川荘に属したとある。(会見町誌)

※会見町誌では治安年間に藤原資頼が伯耆守に任じられた頃とあるが時代が合わないため取違いと考えられる。

 

伯耆志 宮前村の条 古屋敷の項

社地の北の地名をかく呼びて空堀の形あり。棟札に天文四年、代官藤原某と記せるあり。此人の墟なりと伝えり。尼子氏の臣なるべし。

 

1535年(天文4年)、尼子氏の代官として藤原某が当館に居住したとある。(伯耆志)

社地とは現在の賀茂神社周辺を示すと考えられ、境内の東側から北側にかけて空堀と土塁の遺構が当館跡まで続いている。

 

鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)に掲載の縄張図では賀茂神社周辺の遺構は図示がなされていない。

 

年 表

1535年

天文4年

尼子氏の代官であった藤原某の居館と伝わる。(伯耆志)

地 図

 

写 真

訪城日 2020/02/01

中央郭跡から北へ下る空堀

中央郭跡から北へ下る空堀

写 真

訪城日 2014/05/04

居館跡へ続く道

賀茂神社への参道

賀茂神社

賀茂神社奥の社

空堀

空堀は賀茂神社から居館跡へ続く

山中の空堀と土塁

山中の竪堀

山中の空堀

縄張図中央の長方形の郭跡

長方形の郭跡(東端)に礎石

中央郭跡から北へ下る空堀

空堀の北側から南側

北側空堀から東側郭跡(北東方形郭)

北東方形郭には土塁と切岸

北東方形郭の北東端土塁(池付近)

北東方形郭の北東端

中央の長方形郭跡南側の連郭へ

三段連郭下段には井戸跡

井戸跡

井戸跡

三段連郭下段

三段連郭下段は畦道で区切り

三段連郭中段

三段連郭中段

三段連郭上段

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