伯耆国 会見郡
こようがい
古要害
所在地
鳥取県西伯郡南部町天萬
城 名
古要害(こようがい)
別 名
―
築城主
不詳
築城年
不詳(16世紀頃を伝える)
廃城年
不詳(16世紀後半頃を伝える)
形 態
丘城
遺 構
郭跡、横堀、空堀、櫓台、切岸、土塁、虎口
現 状
石山公園、山林
備 考
史跡指定なし
縄張図
古要害略測図(鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)) ※鳥取県教育委員会提供
城 主
不明
委細不詳。
参考資料(史料及び文献、郷土史など)
伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻二 大正5年8月 佐伯元吉)
会見町誌(昭和48年11月 会見町誌編さん企画委員会)
会見町誌 続編(平成7年10月 会見町誌編さん企画委員会)
角川日本地名大辞典 31鳥取県(昭和57年12月 角川日本地名大辞典編纂委員会)
年 表
16世紀頃
伯耆国手間要害の支城のひとつと考えられる。
1929年
昭和4年
この頃、石山公園の整備が開始されたと考えられ、同年秋、三十三体の観世音菩薩の石像を勧請。
1930年
昭和5年
5月、公園入口に「観音霊場石山公園開発記念碑」を設置。石山公園が完成。
概 略
城砦の位置する字名に「古要害」と見える。
所在する山は「秋葉山」「護国山」「常福寺山」と時代により幾度か名称が変わっている。
伯耆志 寺内村の条 古屋舗の項
村の南際に在り。空隍の形を存す。何人の墟にや。
伯耆志 天萬村の条 日ノ岡山の項
村中に在り。上に云ふ大神宮の旧社地あり。方八間許なり。地中方壹間余の大石あり。
伯耆志 天萬村の条 刑場跡の項
村の西一丁余方五間許の地なり
伯耆志では寺内村の南際に空堀を有した古屋敷の所在を伝えているが当城砦は天万村に所在とするため、この記述が当城砦を指すかは不明。
同じく天萬村の条では日岡山及び刑場跡についての記述が候補地として考えられる。
日岡山の項にある1間(約1.8m)の大岩は現在の石山公園内に見つけることはできなかった。
刑場跡についても村から西側とするため、村の南側に所在する当城砦を指す可能性は低い。
会見町誌続編
数段の郭群があり尾根を切断する堀が半周する。16世紀後半。伝不詳。
会見町誌続編では周辺の字名に見える「大屋敷」「中屋敷」から当要害の運用を担った人物の屋敷の存在を、「馬場脇」から軍馬などの管理を行った場所、或いは周辺であることが推測されている。
麓の集落には「古市場」の字名が見えることから一定規模の城下町が形成されていたことも伺える。
当城砦より南の山中に所在する伯耆国手間要害は毛利氏が西伯耆の経営に於いて重要視した5城の一つに数えられているが手間要害は戦闘に特化した城砦で城下町の形成には適さない。
このことから当城砦を含め、伯耆国膳棚山城、伯耆国峰山砦、伯耆国三崎館、伯耆国宮前館、伯耆国天万固屋、高固屋(絹屋)、伯耆国久明山城、伯耆国高姫根小松砦、伯耆国高姫方形館、伯耆国浅井居館群など手間山と周辺に所在した城郭群を纏め手間城(手間要害)と呼称したことも考えられる。
周辺諸城の字名から頼れば手間城の政庁機能を当城砦と城下町に求めた可能性が推測される。
石山公園由来記(会見町誌収録)では伯陽電鉄(法勝寺鉄道)の手間駅開業に合わせ、降車客を呼び込むための観光地創出策として石山公園の整備に着手した旨が記載されている。
1929年(昭和4年)秋、三十三体の観世音菩薩の石像を勧請。当時は秋葉山を称したとある。
1930年(昭和5年)4月、公園の入口に「観音霊場石山公園開発記念碑」を置いたとある。(5月とする記述もあり)
石山公園は桜など花見の名所として親しまれたが大東亜戦争の開戦を機に徐々に廃れていったとされる。
石山公園の開発が行われたことから、縄張に見える地形については少なからず改変を受けていると考えられる。
主郭南側を半周する空堀も一部の伝承では往古に山から伐採した材木を運んだ際に出来たものとする言い伝えが聞かれた。
写 真
2015年12月6日