伯耆国 会見郡
みねやまとりで
峰山砦
所在地
鳥取県西伯郡南部町宮前
城 名
峰山砦(みねやまとりで)
別 名
峰松山城(みねまつやまじょう) …伯耆闘戦記などによる呼称。
築城主
不詳
築城年
不詳
廃城年
不詳
形 態
山城
遺 構
郭跡(腰郭、帯郭)、堀切、土塁、土橋、竪堀、切岸
現 状
山林
備 考
史跡指定なし
縄張図
峰山砦略測図(鳥取県中世城館分布調査報告書第2集(伯耆編)) ※鳥取県教育委員会提供
参考資料(史料及び文献、郷土史など)
伯耆志(因伯叢書 伯耆志巻二 大正5年8月 佐伯元吉 因伯叢書発行所)
伯陽闘戦記(文政9年正月 鍋倉村 藤原政五郎の書)
伯耆闘戦記(刊行年不明)※伯陽闘戦記の写し
伯耆国陰徳合戦記(天保2年8月 刊)※伯陽闘戦記の写し
伯耆国陰徳戦記(明治12年写)※伯陽闘戦記の写し
天満鎌倉山合戦記(昭和44年1月発行)※伯陽闘戦記が元
概 略
伯耆国手間要害と同じ山塊の北東端、峰山に所在する属城で丑寅(艮)の方角に対する出城のひとつと推測される。
西側には伯耆国古要害、東側の尾根麓には伯耆国宮前館が所在し、1535年(天文4年)には尼子氏の代官として藤原某が宮前館に居住したと記録にあることから宮前館を平時の居館、有事の際は当砦或いは古要害を詰城とする運用が想定される。
文献に直接の記述は見えないが伯耆闘戦記に「手万山」を「峰松山」と称しており、手万山の北東端に位置する峰山が峰末山(峰松山)へと変化し、手間要害を居城とした浅野寶光の持城のひとつとして物語に登場したことも考えられる。
城砦は峰山の中腹から北東の尾根部まで広く分布しているが、大きくは北東の尾根部(北北東の小規模郭群と北東の土橋状郭群)と南西の主郭部の2区画に分かれている。
北東と南西の両施設は最終的に土橋で繋がれる形となっているが、それぞれを構成する遺構は全く異なっている。
北東の尾根側は細く長い形状の郭や土塁、堀切のみで構成され、比較的簡素な造りから遊撃や足止めを前提とした設計が推測される。
主郭は峰山の山頂からやや東へと下った谷部を天然の堀切として利用可能な位置へと築かれ、東側の土橋に対しては放射状の帯郭が幾連(7段程度)も連なっていることから射撃陣地としての運用が想定される。
峰山の頂上から続く西側には尾根を断ち切るように土塁と3条の堀切が見え、主郭にも腰郭を備えるなど丁寧な造りとなっていることから宮前館の詰城は峰山の主郭に求めることが適当とも考えられる。
但し、主郭北側の尾根や北東の尾根部の郭群からは何れも不明瞭ながら古要害へと続く土橋状の郭が見えることから、古要害との連携の可能性も完全には排除できない。
写 真
2020年2月1日