所 属
毛利
吉川
よみがな
人物名
いわがき かがすけ
岩垣何助
伯耆民談記、秋里新左衛門戦務書述での記述
官 途
不詳
出身地
不詳
生 年
不詳
没 年
不詳
氏
不詳
姓
不詳
諱
不詳
列 伝
秋里新左衛門の部将。
伯耆国妙見山城の戦いでは秋里新左衛門と並ぶ戦功を挙げたと伝えている。(秋里新左衛門戦務書述)
伯耆民談記 八橋郡古城之部 妙見山の城
上ノ郷大杉村に在り。当城は南条元続より人数を入置きたり。天正十年、篠山の森脇越後守より秋里新左衛門、三沢備後を遣し攻めたるに、南条元続も自身当城に来り。突て出で戦いしが秋里並に岩垣何助、南条が士の近藤何某、東平八という者を討て遂に城を乗り取りける。
1582年(天正10年)
南条方の立て籠もる妙見山城を攻め、秋里新左衛門と共に南条方の城将、近藤何某と東平八を討ち取り妙見山城を奪取する戦功を挙げている。(伯耆民談記(八橋郡古城之部 妙見山の城))
伯耆民談記 八橋郡古城之部 秋里新左衛門戦務書述の事
近年私御奉公仕様之事
一、景盛御打果しの時、八橋郡上ノ郷妙見山を受取可攻旨森脇越後守殿より三沢備後守殿、某両人に被仰付馳向候て城にも入不申山下至南条殿自身に被出候處、三沢殿は岸中に逗留城より南条殿方に末の仕手、近藤と申仁罷出候を道にて岩垣何助、私両人申合取すすめ速時に彼城にへ入受取申事森脇具に可被存知事。
因幡(稲場)民談記 巻第十 筆記之部 下 秋里新左衛門戦務書述
近年私御奉公仕様之事
一、景盛御打果の時八橋郡上の郷妙見山を請取申すべき之由従森脇越後殿、三沢備後殿、我両人参候へ之旨被仰付参候。左候えば城にも入不申至山下南条殿自身被出候處、三沢殿者岸中逗留城より南条殿方に示して近藤と申仁罷出候を道にて岩垣何助、私両人申合すくめ則彼城に入請取申事森脇被存知候事。
1582年9月1日(天正10年8月15日)
杉原景盛の死により妙見山城は南条方から毛利方への返還が約束されたとする。(秋里新左衛門戦務書述)
1584年(天正12年)
杉原景盛の死後、毛利方へ返還されるはずの妙見山城は南条方の近藤何某が占有を続ける。
吉川方の森脇春親は部将の秋里新左衛門、三沢備後守を遣わし妙見山城の返還を迫るが、返還を拒否し吉川方の城への入城も拒んだため秋里新左衛門は山下(城下)、三沢備後守は岸中(主郭直下の切岸付近か)に布陣している。
妙見山城の包囲は完成するが、南条元続自ら援軍を率いて来援するとの報せを受けた妙見山城の城将、近藤何某は援軍との挟撃を意図したか城内から出陣している。
行軍中であった南条方の軍勢を秋里新左衛門と共に急襲し、近藤何某を討取或いは捕縛すると速やかに妙見山城を奪取している。
森脇春親への報告書では妙見山城を迅速に接収できたのは秋里新左衛門の迅速且つ的確な判断に自身の働きあっての事として両名の手柄である事が念入りに報告されている。(秋里新左衛門戦務書述)