所 属
南条
よみがな
人物名
こんどう なにがし
近藤何某
伯耆民談記、秋里新左衛門戦務書述での記述
官 途
不詳
出身地
不詳
生 年
不詳
没 年
1582年(天正10年)
氏
不詳
姓
不詳
諱
不詳
列 伝
伯耆国妙見山城の城主と伝える。
伯耆民談記では南条家に与した人物とするが、秋里新左衛門戦務書述では伯耆民談記と因幡民談記で一部記載が異なっている。
秋里新左衛門戦務書述(伯耆民談記)では「南条殿方に末の仕手」とあり、南条元続の一族で神主や禰宜など神職と考えられる写しとなっている。
秋里新左衛門戦務書述(因幡民談記)では「南条殿方に示して」とあり、南条元続の援軍に同調し城から撃って出たとする写しとなっている。
没年もやや異なり、伯耆民談記(八橋郡古城之部 妙見山の城)では1582年(天正10年)に討死とするが、秋里新左衛門戦務書述(伯耆民談記)では1584年(天正12年)に殺害と推定される記述があり、秋里新左衛門戦務書述(因幡民談記)では押さえ付けられ捕らわれたとする記述となっている。
伯耆民談記 八橋郡古城之部 妙見山の城
上ノ郷大杉村に在り。当城は南条元続より人数を入置きたり。天正十年、篠山の森脇越後守より秋里新左衛門、三沢備後を遣し攻めたるに、南条元続も自身当城に来り。突て出で戦いしが秋里並に岩垣何助、南条が士の近藤何某、東平八という者を討て遂に城を乗り取りける。
1582年(天正10年)
伯耆民談記(八橋郡古城之部 妙見山の城)では東平八と共に吉川方の秋里新左衛門、岩垣何助に討ち取られ妙見山城が落城としていることから南条方の城将であったことが伺える。
伯耆民談記 八橋郡古城之部 秋里新左衛門戦務書述の事
近年私御奉公仕様之事
一、景盛御打果しの時、八橋郡上ノ郷妙見山を受取可攻旨森脇越後守殿より三沢備後守殿、某両人に被仰付馳向候て城にも入不申山下至南条殿自身に被出候處、三沢殿は岸中に逗留城より南条殿方に末の仕手、近藤と申仁罷出候を道にて岩垣何助、私両人申合取すすめ速時に彼城にへ入受取申事森脇具に可被存知事。
因幡(稲場)民談記 巻第十 筆記之部 下 秋里新左衛門戦務書述
近年私御奉公仕様之事
一、景盛御打果の時八橋郡上の郷妙見山を請取申すべき之由従森脇越後殿、三沢備後殿、我両人参候へ之旨被仰付参候。左候えば城にも入不申至山下南条殿自身被出候處、三沢殿者岸中逗留城より南条殿方に示して近藤と申仁罷出候を道にて岩垣何助、私両人申合すくめ則彼城に入請取申事森脇被存知候事。
1582年9月1日(天正10年8月15日)
杉原景盛の死により妙見山城は南条方から毛利方への返還が約束されたとする。(秋里新左衛門戦務書述)
1584年(天正12年)
杉原景盛の死後、毛利方へ返還されるはずの妙見山城の占有を続ける。
吉川方の森脇春親は部将の秋里新左衛門、三沢備後守を遣わし妙見山城の返還を迫るが、返還を拒否し吉川方の城への入城も拒んだため秋里新左衛門は山下(城下)、三沢備後守は岸中(主郭直下の切岸付近か)に布陣している。
吉川方の軍勢により包囲され籠城していたが、南条元続の援軍の報せを受けると援軍との挟撃を意図したか城内から出陣している。
出陣後の道中で秋里新左衛門、岩垣何助の奇襲を受け討死或いは捕縛されたため妙見山城を奪われている。
秋里新左衛門戦務書述(伯耆民談記)では秋里新左衛門、岩垣何助が合力し、敵大将を「取すすめ」迅速に妙見山城を奪取したとすることから伯耆民談記では殺害されている可能性を伺わせる。
秋里新左衛門戦務書述(因幡民談記)も同様の内容だが、敵大将を「すくめ(た)」としていることから、因幡民談記では捕縛に留まったことと訳している。
伯耆民談記(八橋郡古城之部 妙見山の城)では1582年(天正10年)の出来事としているが、秋里新左衛門戦務書述では杉原景盛に関する報告書に続いて「同月に舟上細木原之城に行松殿被罷出候に」と続くことから1584年(天正12年)の出来事としている。